1998/11/24 産経新聞朝刊
【はじめて書かれる地球日本史】(314)西欧の先を見た教育改革(4)
西尾幹二(評論家)
教育立国として日本が近代産業国家への自己転換をみごとに果たしたことは、明治維新史の一ページに特筆されるべき大きな出来事であったといっていい。
例えば工業先進国イギリスの場合には、産業革命が成功して一定の段階にまで達してから、徐々に義務教育の就学率が上がっていくのだが、日本の場合にはその逆だった。義務教育制度が発足した明治五年(一八七二)のわが国の小学校の就学率はわずか二八%で、イギリスの四〇%より格段に低かった。しかし明治三十三年(一九〇〇)には八〇%で早くもイギリスと肩を並べ、明治四十三年(一九一〇)前後に両国はそろって一〇〇%に近い数字を示した。
◆英国しのぐ中等教育
すなわちイギリスより約一世紀ほど産業革命が遅れたと考えられる日本の場合には、イギリスのように社会の工業化の後を教育が追いかけてゆくのではなく、教育が先頭に立って、社会の工業化を引っ張っていったという事情を、数字が証明しているのである。
つまり日本では工業化が本格化したとき、小学校普及はほぼ完了していた。そして驚くべきは中等教育の進学率では明治の末年に日本は一二%、イギリスは四%で、このとき近代教育の先進国イギリスを早くも量的に凌駕したのである。
一般にヨーロッパにおける中等教育の伸び悩みの原因は、階級格差の残存にあると考えられる。パブリック・スクールやギムナジウムやリセイは卒業しただけで「身分」を示す標識になるということは前回に述べたが、単線型学校制度下の日本の中等教育にはそれだけの社会的威信がなかった。教育の自由競争は日本を封建体制から解放するのが目的だったからである。その結果、この国の教育が招来した最も大きな社会的効果は「平等」だった。
それを何よりも証明したのは第二次大戦後における高校進学率の、明治における義務教育普及率に勝るとも劣らぬ短期間での急上昇だった。昭和三十年(一九五五)に五〇%であった高校進学率は十年ごとに何と二〇%ずつ上昇し、昭和五十年(一九七五)に九〇%に達した。アメリカが五〇%から九〇%になるのに四十年かかったことを考えると、世界に例の少ない急上昇であったことがわかる。
しかし教育の「平等」は教育の「効率」を下げる、というのは一つの公理である。人間の能力は元来不平等だからである。異なる能力の子供を一教室に集めて、同じ教材で「平等に」教えるより、教室も教材も能力別に分けて教えるほうが「効率」がいいことは、自明である。単線型制度を選んだ日本の中等教育は、戦前は中学、戦後は高校という呼び名で画一化している。したがって教育上の「効率」をあげるためには、学校ごとに微妙な格差を設け、学校体系をピラミッド型に整然と序列化することが必要になってくる。
◆平等が競争を激化
こうしてわが国の教育における能力の評価と選抜のシステムは名目上の「平等」が実質上の「不平等」をもたらすという病理、すなわち「平等」が進めば進むほど「競争」を激化させるという病理を進行させ、今日、行き詰まりの極点に達しているのは周知の通りである。現在の病的事態は明治の「学制」が高らかに宣言した能力主義(メリトクラシー)の、言うならば必然的帰結であったと考えてよい。
階級格差が残存するヨーロッパの中等教育には、ここまで事態を崩落させない歯止めがずっとかかっていたが、二十世紀最後の二十年で同じ「平等」熱にとらえられ、日本の後を追い始めた事情を、ドイツの統計数字で確かめてみよう。
ドイツの学校は(1)エリートコースのギムナジウム、(2)中間階級のレアールシューレ、(3)労働者階級のハウプトシューレのいずれかに、小学校四年の終了後にコースが分かれる典型的三分岐型制度だが、一九六五年当時(1)が一五%、(2)が一二%、(3)が七三%であった。日本でいえば昭和四十年に中卒が七割以上だったことになる。一九八〇年には(1)が二四%、(2)が二三%、(3)が四四%、その他が九%と急速な変化を示している。そして私の入手した最新のデータは一九九〇年で、制度の異なる旧東独地区は統計の外になるが、(1)が三一%、(2)が二九%、(3)が三四%とさらに上昇し、その他に(4)として日本と同じ小学校から単線型のゲザムトシューレが新設され、これが六%である。興味深いのは(3)の数字が州ごとに異なり、南独のバイエルン州はいまなお四一%、ベルリン市は一六%と大きな開きがあることである。しかしいずれにせよ、階級格差による安定は壊れ始め、「平等」と「効率」の分裂に悩む日本と同じ病理現象が出始めている。(評論家 西尾幹二)
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|