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1998/11/23 産経新聞朝刊
【はじめて書かれる地球日本史】(313)西欧の先を見た教育改革(3)
西尾幹二(評論家)
 
 但馬国出石藩の下級武士の出身である加藤弘之は帝国大学総長となり、貴族院議員に勅選され、長年、明治の学界に君臨した人物である。
 「余の如きは本来貧士族から成り上がったのであるけれども、今日は親任官(天皇によって叙任される当時の最高の官吏)を辱(かたじけな)くして居るから、宮中席次に於いては公侯爵の上に列することができるのである。公侯爵といへば、近頃士族から成り上がった人々もあるけれども、然かも旧大将軍家、旧五摂家が公爵中の重もなるものであり、又旧清華(せいが)、堂上や、旧国持大名が侯爵中の重もなるものであることを考へてみると、余等封建時代の老人には、実に奇異なる感が起こるのである」(『自叙伝』)。
 
◆個人のための教育
 明治の社会は才識、または学芸のある者はいかなる高位高官にも昇進できる、江戸時代とはまったく異なる能力社会であることを自分は一応承知しているけれども、よく考えてみるとちょっと空恐ろしくなる、という思いを「奇異なる感」の語に込めて語ったように思える。
 維新以後、日本は驚異的な速度で欧州各国がかつて味わったことのない経験、社会構造を教育を通じて抜本的に変える全面的な変革の時代を通過した。財政の裏付けもないまま、上から画一的理想の方式をかぶせたような明治五年発布の「学制」は実施不可能な面が多く、明治十二年には「教育令」に取って替わられた。それも問題があるとして、さらに明治十八年森有礼が初代文相に就き、大学・中学校・小学校・師範という学校別に分化された「学校令」という四つの具体的な法令を発布し、ともあれ一応地に足が着いた。しかし、たとえ現実からややかけ離れていたとはいえ、最初の「学制」が提起した理念はその後の日本の教育の方向をほぼ決めている。
 教育は国家のためにではなく、個人のために必要なのだとし、「立身治産」のための学問を説き、「自今以後一般の人民、華士族農工商及婦女子、必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」と宣言している。国民各階層への教育必要の呼びかけは、ヨーロッパではやっと第二次大戦後、主に一九七〇年代に慌てて行われだしたが、そのとき日本は高校進学率九〇%を超え、むしろ教育過熱状態に悩み出してさえいた。
 明治の「学制」がフランスの制度を模して八大学区、各大学区に三二中学区(二五六校)、各中学区に二一〇小学区(五三七六〇校)を設けると定めた中央集権的体制は財力なき当時としては時期尚早で、むしろ反発を買ったが、この規模が実現されるのはさして遠い未来ではなかった。
 
◆単線型の学校制度
 しかし何と言っても、「学制」の中の最重要のポイントは、中央集権スタイルだけはフランスを模したのに対し、フランスやドイツやイギリスなどヨーロッパ諸国で今も普通の、エリート階級、中間実務者階級、労働者階級という三つに分岐した複線型の学校系統を採用せず、これだけはアメリカから学んで、単線型の学校系統を提示したことである。これは明治維新が下級武士によるきわめて開明的な、教育を用いた「革命」であったことの何よりもの証拠といっていい。
 全国的な初等教育制度を実施し、学校制度の全体を段階的なピラミッド構造に一元化しようとする決意もまた歴然としていた。ピラミッドの頂点を目指して、すべての児童は同じ所から出発し、それぞれ才能や能力に応じどこまでも高く登ることができるとする公平の確保が高らかに謳われていた。
 ヨーロッパ諸国をもはるかに凌ぐ、合理的で普遍的な単線型学校制度という選抜方式をつくりあげることに、なぜ日本はこんなに早く成功したのだろうか。ヨーロッパ諸国が第二次大戦後にも何とか克服し、脱却しようと苦悩した複線型学校制度−いまなお成功していない−を、日本は明治の初頭に少なくとも理念的には実に易々と乗り越えてしまった。
 この飛躍を可能にした要因についてR・P・ドーア『学歴社会 新しい文明病』は、「支配階級の構成・文化両面における非連続性」を挙げている。イギリスでは十八世紀の貴族エリートから、一九七〇年代のオックスブリッジ・エリートへの変遷には一貫した流れがある。家系、趣味、生活様式、自意識は世代から世代へとつながっている。地主貴族文化の継承といっていい。しかし日本の支配階級は、明治維新により一変し、断絶した。
 近代日本の成功が教育にあるとはたしかにこのことだが、同時にこの成功は別の新たな災いをも随伴していた。(評論家 西尾幹二)


 
 
 
 
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