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2000/04/12 産経新聞朝刊
座談会「教育憲法を考える」(3-1)21世紀見据えた変容が必要
中曽根康弘(元首相)
西部 邁(評論家)
松井 孝典(東大教授)
松本 健一(評論家)
 
 教育の「憲法」ともいわれる教育基本法を見直す動きが広がりをみせている。評論家の西部邁氏は「正論」五月号に教育基本法の抜本改革私案を発表した。教育基本法のどこに問題があるのか、二十一世紀を前にどう見直したらよいのか。中曽根康弘元首相、西部氏、松井孝典・東京大学教授、評論家の松本健一氏に徹底討論してもらった。(司会は政治部長 中静敬一郎)
 
−−なぜ教育基本法を見直そうというのですか。
松本 教育基本法とは何かを考えると、憲法の下に民法とか刑法とかがあって、その多くの法律の一つに教育基本法があると思いがちですが、実は教育基本法と憲法は非常に密接な関係にあるんです。というより国家の両輪になっている。明治憲法の時代も、憲法と教育勅語(注1)が両輪の形だった。
 憲法が国の形を原理的、外形的に規定するものならば、教育基本法は、国を根底において支える人間の形を精神的、内面的に方向づけるものです。明治憲法も教育勅語も井上毅(こわし)(注2)という同一人物が基本的に作っているように、戦後も連合国軍総司令部(GHQ)が指示して作ったという点で作者が同じだと考えられる。
 そうすると、教育基本法を考え直すということは、憲法をどうするかと同時に、国の礎を形成する人間をどうつくっていくかが問われていると思うんです。
 
中曽根 まったく同感で、私は教育基本法が作られたときに国会議員に当選した。昭和二十二年です。そのときの実感では、「教育勅語」をやめた空白を埋めるためマッカーサーが米国から調査団を呼んで、米国的民主主義を徹底する意味で教育基本法を作った。その後の成り行きを見るとまさにそのようになった。米国の政策は成功したが、日本側は被害がかなりあった。私は臨時教育審議会(臨教審、注3)を十六年前に作ったとき、教育基本法から直さなければいけないと考えた。
 しかし、当時は国鉄、電電公社の民営化など行革を実行しなければならず、国会でこの法案を成立させるためにある程度、野党と妥協しなくてはいけない。そこで今度の改革では教育基本法には手をつけないと、口頭で言った経緯がある。その点に責任を感じているわけです。
 
西部 教育基本法を自分なら、どう改定すべきかと考えているなかで、米国による戦後日本人に対する洗脳は、ほぼパーフェクトに進行したのだということを改めて思い知らされた。僕はちょうど敗戦の年の小学校入学だから、戦後教育の第一期生ですが、子供のころから教室でなんとなく肌で感じていた欺瞞(ぎまん)と偽善の雰囲気が見事に価値体系としての教育基本法に示されている。
 主権在民が戦後うたわれたが、私が思う民というのは、国の歴史に基づく国柄といったものに基礎づけられた国民であって人民ではない。ところが、教育基本法に書かれているのは、日本国民の価値観でなくて、まず素っ裸の人民を考えて、それに米国的な人間観なり社会観に基づいて、外部注入的に戦後日本人を精神的に改造するという趣旨が全十一条に首尾一貫して貫かれている。
 ですから、戦後五十数年間で相当壊されてしまった日本の国柄、日本人の国民性というものをなんとか取り戻すための最初の手がかりとして教育基本法について国民的なレベルで議論すべきです。
 
松井 そうですね。やはり歴史的、風土的な存在としての人間論を教育基本法の中でまとめないといけないでしょう。さらに言えば、未来に向かって現代はいかなる時代かという認識もきちっと入った方がいい。現代は何かと考えると、われわれが宇宙から見える存在になった。そういう認識の中で国家とは何かを考えなければいけない。
 そうなると、僕は民主主義という制度も考え直さざるを得ないと思う。たまたま二十世紀は、人類が豊かさを手にして右肩上がりで進んでいった時代だった。右肩上がりで物事が進んでいく時代は、民主主義とか市場主義経済とかが成立する。ところが右肩上がりでなくなったとき、われわれが普遍的価値と思っている概念、例えば、人権とかが成立するかというと、かなり疑問だと思います。二十一世紀が停滞の時代になったときには、民主主義はもう一回テストされるだろうし、国家とは何かとの問い直しもあるでしょう。そのぐらいまで踏み込んだ視野を持って考えていないと、単に二十世紀の枠組みの中で「人間とは何か」を法律として書いても足りない分があるのではないか。
 
西部 教育基本法前文には憲法に触れながら、「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献する」と規定されているが、この文章のむなしさをそろそろ気づかねばなりません。問題は「文化」が何に基づき、どこからわき上がってくるものかという説明が、一言もないということです。「世界の平和と人類の福祉」も随分とむなしい。世界は決して均質で平板な世界ではない。
 「世界の平和」を実質ある形で言うとしたら、国民国家群がどういう関係を持つべきかという議論をしなければならないのに、それがない。世界という巨視的なイメージと、個人という微視的な存在をつなぐものが憲法にも教育基本法にもない。両者を媒介しようとしたら、国民性とか歴史が浮かんでくるはずなのに、それがないのが敗残人民の悲しさです。
 
松本 実際の人間がどこの土地に立っているか、どういう伝統文化を引き受けているか、あるいはどういう人間と話しているか、何語で話をしているかということは全くおかまいなしということですね。
 
西部 そう。前文に「個人の尊厳」とあるが、個人の尊厳性はどこから出てくるのか。単に人命を長らえていれば、それ自体、尊厳が宿るのか。尊厳性には尊厳性にふさわしい内容がなければならず、その内容の基盤となるのが国の歴史と文化ですね。
 基本法の言葉は、平和といい、福祉といい、尊厳といい、実に空虚なんです。五十五年間、こんな空語を流通させていれば、どんな国民の精神もむなしくなる。その結末が今の日本ではないのか。
 
中曽根 マッカーサーの占領政策、それを受けた日本側の受容力、文部省、日教組あるいは政党が洗脳された状態でずうっときたんですよ。今の教育基本法は、ブラジルへ持ってたってメキシコへ持ってたって適用できる。
 
松本 そのままでいい。
 
中曽根 だから蒸留水なんだと。だけど恐らくメキシコでもブラジルでも有害といわれるでしょう。
 
松本 どこの国にも通用するように見えるのは、どこの国のものでもないということです。つまり国籍不明の人間をつくるという教育になっている。
 
西部 憲法と教育基本法をわれわれにあてがった米国という国の問題性は、ハイエク(注4)がいった設計主義です。つまり国民なり国家なりは、知識人たちが案出した観念とか計画に基づいて設計できるものだという考え方が米国にもあった。ソ連ほどでないとしてもアメリカも実験主義の国なのであって、明らかに米国はどういうふうに日本人を洗脳するかという設計主義の考え方で、教育基本法を日本人に書かせた。憲法もそうですけどね。それにはっきりと批判の視線を向けるべきです。
 
◆注1 明治二十三(一八九〇)年発布。明治天皇の名で「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ」を示した。
◆注2 欧州で学んだプロイセン憲法を日本に紹介し、明治憲法、教育勅語の起草に中心的役割を果たした。(一八四三−一八九五年)
◆注3 昭和五十九年八月、中曽根康弘首相(当時)の諮問機関として設置され、六十年から六十二年までに四回の答申を行い、「個性化」「情報化への対応」「生涯学習の推進」を打ち出した。
◆注4 オーストリアの経済学者、社会哲学者。自由な市場経済の優位を主張した。(一八九九−一九九二年)


 
 
 
 
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