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2002年10月号 正論
日本を蝕む日教組の浅薄な伝統観
明星大学教授●高橋史朗(たかはし・しろう)
 
日教組の五万カ所集会計画
 
 教育基本法の見直し論議が山場を迎えようとしている。文部科学省の諮問機関である中央教育審議会は、昨年十一月の諮問から八回の総会と十二回の基本問題部会での論議を経て、(1)普遍的な理念は残し、新しい教育基本法はどうあるべきかという視点から見直す(2)現行の憲法の枠内で見直す(3)基本計画の策定の根拠となる規定を盛り込む、などの大枠はほぼ合意されたという。秋には中間報告、年内に答申をまとめる予定であり、自民党も本年一月に「教育基本法検討特命委員会」を発足させ、精力的に論議を重ねている。
 日本PTA全国協議会が今年実施した「学校教育改革についての保護者の意識調査」(回答者四千七百七十七人)によれば、「教育基本法を見直す必要はない」と答えた者はわずか二%にすぎず、中央教育審議会の教育基本法見直しで議論してほしい内容は、(1)公共心・倫理観(三四%)(2)親・学校・地域社会の連携(二五%)(3)国際化(二四%)(4)国家や社会の一員としての自覚(二二%)(5)生涯学習(二一%)(6)家庭教育(一九%)(7)伝統・文化(一六%)などである。
 「見直す必要はない」と答えた者は五〇代が群を抜いて多く、二〇代はゼロ、三〇代も二・五%にすぎない。逆に「積極的に議論して見直すべきである」と答えた者は、四〇代、三〇代、五〇代、二〇代、六〇代の順になっており、都道府県などのPTA地方協議会の役員、各学校単位のPTA役員が多く、全体の四割を占めている。
 一方、日教組は、本年が教育基本法公布五十五周年の節目の年であるとして、教育基本法“改悪”への反対行動に組織を挙げて取り組むことを運動方針で明らかにしている。「秋の教育改革キャンペーン全国一斉行動」を展開し、中央・各県での「教育フォーラム」などを開催するほか、全国五万カ所で教職員と地域・子供の対話集会を組織して、広範な市民・保護者によるネットワークづくりに取り組むという。
 日教組が全国五万カ所で展開する「教育基本法を読み生かす」秋の全国一斉行動の理論的支柱になっているのは、日教組のシンクタンクである国民教育文化総合研究所が作成・発行したパンフレット「教育基本法を『生かし活かす』ために」(以下パンフ)である。「教育基本法擁護論への『改正』論者による誤った批判」と題して、五頁にわたって筆者の諸論文を批判しており、その影響力は軽視できないので、明確に反論しておきたい。
 
浅薄極まりない「伝統」認識
 
 論点は、(1)基本法から「伝統を尊重して」という文言がGHQによって不当に削除させられた(2)基本法と教育勅語は一時期、併存していた(3)日教組もかつては教育基本法を批判していた―という筆者が主張する三点である。
 まず第一点についてパンフは、(1)「伝統を尊重して」という語句は、そもそも教育基本法前文案には入っていなかった(2)「伝統を尊重して」の伝統が「忠孝・奉公」であれば、占領政策と矛盾する、と批判している。
 「伝統を尊重して」という語句は、終戦直後に政府が教育改革のために設置した審議会「教育刷新委員会」で羽渓了諦が突如追加したものだと日教組は主張するが、教育刷新委員会の総会では羽渓のみならず木下一雄、渡部銕蔵など複数の委員がしばしば提起していた。こうして戦前の反省に立って継承されるべき「伝統」についての論議が教育刷新委員会で行われた結果を踏まえて、田中耕太郎文相が「秩序と伝統を重んずるものでなければならない」という前文案を提示し、「伝統を尊重して」と明記されたのであり、羽渓了諦の独断専行で無理やり追加したものではない。
 筆者はかつて、GHQの教育課長補佐だったトレーナー氏から、「伝統を尊重して」という字句の削除を命じた理由について、「通訳が『伝統イコール封建的』と訳したため」と説明を受けた。つまり明らかな誤解に基く削除であったのだが、誤解であるとの筆者の主張に対してもパンフは、「誤りで」とし、日本の伝統は「奉公」や「忠孝」という封建道徳として理解されているのであるから「削除を求められて当然のこと」と述べている。戦後五十七年経た今日もなおGHQの浅薄極まりない伝統認識から未だに脱却できていない日教組の伝統認識の未熟さには驚くばかりである。
 日教組のかかる伝統認識に少なからぬ影響を与えていると思われるのが、日教組が「戦後教育改革研究の第一人者」と仰ぐ佐藤秀夫・日本大学教授の論文「教育基本法と『伝統』――教育基本法制定過程に拘わる今日的論議への批判――」(『教育学研究』第六八巻第四号)である。佐藤氏は、「私は活かすべき日本の伝統は何処までも活かして行って差支えないと思いますし、又今後に於ける日本国民の行き方を示すものとして、教育理念の根本に伝統のことを取扱って戴きたいと思います」という教育刷新委員会第三回総会での木下一雄氏や羽渓了諦氏の発言を引用しつつ、「ここに示されているのは、近代天皇制との関連において封建的忠孝概念を改編した、戦前期・戦時期における支配的概念としての『伝統』概念そのものである」と断じているが、それは特定のイデオロギーに呪縛された佐藤氏の勝手な思いこみにすぎない。
 羽渓氏は教育刷新委員会第二回総会において、「今後の新しい教育の上に又在来の儘の忠孝の形式では如何かと思う。新時代の教育と日本の伝統的道義を如何に調和して行くかということは実際問題として、是は教育上重要な問題だと思う」と指摘しており、新時代の教育と調和させる「伝統的道義」のあり方を模索していたことは明らかである。つまり戦前の反省に立って継承されるべき「伝統」とは何かという問題意識が一貫してあったのであり、「かつての『伝統』そのものの復活以外の何物でもない」という佐藤氏の批判は不当である。
 
社民党の天皇批判に屈した国会
 
 GHQが「伝統を尊重して」という字句を削除したことを「当然」とうそぶく日教組は、「教育基本法案閣議検討直前の段階において、このような合意をもつsensitive of traditionの削除をCI&E(民間情報教育局、筆者注)が指示したのは、日本の民主化・平和化を実施させるとの建前のもと『保障占領』を担当している占領軍当局としては当然の措置とみるのが歴史に公正な観点」「日本の『被占領』はそれに先行する日本の『占領』に比較するとき、国際的な制約のもと占領国側の強圧性は、遥かに『自制』的に押さえられていたと考えるのが、客観性ある史的評価というものである」と本音を告白している佐藤論文に依拠している。これが佐藤氏の標榜している「実証的分析に基づく研究の論理」の正体にほかならない。佐藤氏の「歴史に公正な観点」「客観性ある史的評価」なるものがいかに恣意的なものであるか、賢明な読者には一目瞭然であろう。
 また「伝統」は特定の実体をもつものでなく、論者によって「選択」「創造」されると考える佐藤氏は、特定の「伝統」理念を法律によって規定し、教育目的として導入することは、教育が強制でなく被教育者の自主的学習への支援だととらえる立場からすれば、教育の原則に反する重大な行為になると指弾せざるを得ず、思想の自由そのものを否定する行為と断ぜざるを得ない、と指摘している。
 日教組が「戦後教育改革研究の第一人者」と仰ぐ佐藤氏の「伝統」認識の浅薄さ、教育を「強制ではなく支援だ」などと短絡的にとらえる教育観の未熟さ、「伝統」理念を教育目的に導入することは「思想の自由」の否定と断ずる不見識には呆れてものがいえない。
 教育は他律(強制)から自律へと導くものであり、千利休のいう「規矩作法守り尽くして破るとも離るるとても基(本)を忘るな」という「守破離」の精神の如く、「伝統」という基礎・基本の継承の上に、「自由」や「創造」という「離」の段階があるのである。
 「型」を強制的に継承する「道の文化」のように、「伝統」は「選択」ではなく「継承」すべきものであり、「型」の背景にある「伝統」精神の価値と意味性に気づかせ、不断の反省によって殻を破り、見事な変容を遂げることによって新たな価値の創造が可能となるのである。手の平と指、木の幹と枝葉の関係のように、「伝統」という歴史性に根差した基礎・基本の継承なくして、個性、創造性の伸長などありえないのである(拙著『日本文化と感性教育』モラロジー研究所、参照)。佐藤氏や日教組はこの教育の原点がまったくわかっていない。
 羽渓は「今迄のような形式の忠孝では駄目だ」と明言しており、伝承護持しなければならないのは伝統的「精神」であるとの反省に立脚している。この伝統的精神を「奉公」や「忠孝」という封建道徳としてしか理解できないところに日教組の「伝統」認識の致命的欠陥がある。五年ごとに発表されている文部科学省の「道徳教育推進状況調査報告書」によれば、道徳教育においてわが国の伝統についてはほとんど教えられていない。その最大の要因がこのような未熟な「伝統」認識に立脚して道徳の強制に反対してきた日教組にあることは明らかである。
 ちなみに、前国会で成立した「文化芸術振興基本法」の最終審議で自民党の「日本文化の伝統を尊重」という字句の「日本文化の伝統」は「天皇をイメージさせる」という社民党議員の反対を受け入れて「文化的伝統」という無国籍な表現に改めたというが、不見識極まりない。日教組はじめ、わが国の伝統を否定する勢力の影響は看過できないものがある。
 
補完関係にあった教育勅語と基本法
 
 戦後教育史の定説では「教育勅語体制から教育基本法体制へ」というスローガンのように戦前と戦後を二分法的対立図式でとらえてきたが、昭和五十六年に筆者がアメリカで発見した占領文書などにより、次の事が明らかになっている。教育基本法は教育勅語を否定して制定されたものではなく、道徳としての教育勅語と法としての教育基本法はセットとしてとらえられていたが、GHQの口頭命令によって強要された国会決議によって教育勅語並びに教育勅語と教育基本法を補完併存関係ととらえた政府文部省の公的見解が否定されてしまったのである。
 当時ソニーの社長だった故・井深大氏が、筆者の研究に基づいてこのことを『あと半分の教育』という本にまとめたところ三十万部を超えるベストセラーとなって大反響を呼び、戦前の教育との連続性を必要以上に断ち切ってしまったことが教育荒廃の根因であるとの認識が広範な支持を得たのである。従来の定説を根底から覆した第二の論点はその意味で重要な歴史的意味を持っているのである。
 文部省などで「教育勅語は廃止しない」とか「教育基本法とは矛盾しない」といった解釈があったことと、「教基法と教育勅語が併存していた」ということとでは意味が大きく違う、とパンフは主張しているが、この論点も以下の佐藤論文に依拠している。
 「確かに『教育根本法』構想を発案した文相田中が教育勅語の『自然法的真理性』を強調したり、教育基本法成立時の文相高橋誠一郎が教育基本法により教育勅語が廃止されることを意味しないなどと議会答弁していた。それを直ちに立法者意思と主張するのは、およそ児戯に等しい論理である。上述のように、それは、急激な『改革』に直面せざるを得ない事態において、その民心に対する『衝撃』を出来得べくんば『緩和』させたいと願う、当時の権力者たちが常用した詭弁または虚偽言説の一つに過ぎない。これは過去にもまた現在においても、しばしば権力者たちが常用するものであり、それを『立法者意思』と客観視すること自体が、すでに論者の政治的願望の表出以外のなにものでもないのである」
 佐藤氏は、田中耕太郎・高橋誠一郎文相の議会答弁は「立法者意思」ではなく、「詭弁または虚偽言説の一つに過ぎない」と断じているが、これは看過できない。両文相の議会答弁は文部省調査局編『第92回帝国議会に於ける予想質問答弁書』の内容と合致しており、いかなる根拠をもってこれを「詭弁」「虚偽言説」と決めつけるのか。文相の議会答弁を「立法者意思」を代弁したものでないというのであれば、一体、佐藤氏は「立法者意思」をどのように解釈しているのか。この点について具体的な資料を何ら示さず「詭弁」「虚偽言説」と一方的に決めつけ、佐藤氏が両文相の議会答弁は「立法者意思」ではないと客観視すること自体が、「すでに論者の政治的願望の表出以外のなにものでもない」ことを如実に示しているのではないか。それこそ佐藤氏が強調してやまない「研究の実証性」を自ら否定して「実証抜きの非(反?)学問的イデオロギー主張」に陥っていることにならないか。
 佐藤氏は同予想質問答弁書の内容を「立法者意思」と評価する筆者と八木秀次氏の「志の低さ」には「脱帽」の他ないと皮肉り、次のように述べている。「『教育勅語を以て我が国教育の唯一の淵源となす従来の考え方を去って、これと共に教育の淵源を広く古今東西の倫理、哲学、宗教等に求むる態度を探るべきこと』とか、『時勢の推移にかんがみ、不充分な点、表現の不適当な点もあるので』などの言説自体が、本質的な教育勅語否定論に他ならないことに気づかないようでは、つまり本来の意味での『不敬』発言を『許容』しているようでは、正確な意味での教育勅語肯定論者でもないし、天皇制的『伝統尊重』主義者でもないことになる」
 これも佐藤氏の歴史研究者の資質を疑わせる指摘である。この昭和二十一年十月八日の文部次官通牒「勅語及詔書等の取扱について」や同予想質問答弁書の内容が、一体なぜ「本質的な教育勅語否定論に他ならない」と断定できるのか。仮にこれが本質的に教育勅語を否定したものであったなら、なぜ昭和二十三年に衆参両院で教育勅語の排除失効決議をする必要があったのか。このような佐藤氏の恣意的解釈は教育刷新委員会の審議内容を正確に踏まえたものとはいえず、佐藤氏独自の「伝統」解釈、教育勅語解釈と同様、実証性とはおよそかけ離れたものといわざるをえない。
 
二転三転した日教組の基本法評価
 
 第三の論点は、筆者の「教育基本法をネジ曲げた日教組」という昭和六十一年の月刊誌『諸君!』二月号論文へのまったくお粗末な反論で、十六年間も沈黙しておいて今になって見苦しいの一言に尽きる。
 教育基本法制定当初は、日教組や進歩的学者、文化人は同法を無視、または厳しく批判したが、清瀬・荒木文相の教育基本法批判を契機に、わずか数年の間に「擁護」の側に一変した。
 まず、日教組は昭和二十六年に作成した『解説・教師の倫理綱領』において、「日本の教育基本法という法律は、『人格の完成』という極めて抽象的な原理宣言を公にしているが、それでは教育の目的は明らかにならない」と非難している。ところが、日教組は教育基本法が制定された昭和二十二年九月に出版した日教組編『新教育の法規と解説』(教育出版社)では、教育基本法について次のような見解を明らかにしている。
 第一に、教育基本法の制定過程に関して高く評価した上で、教育基本法と教育勅語との関係については、「(教育勅語は)日本国憲法、教育基本法の施行とともに、後者と矛盾する場合は失効する。その他の部分は存立するものであるから、之を善用・活用することは一向差支えない。いわば孔孟の教えと同一のものとなったのである。教育基本法は教育勅語の不適当な点をあらため、新しい時代に即応する理念をもつものである。勅語は全く廃止されることはないが、ただ明治二十三年のものであるため、今日之を補足しなければならぬ点、また曲解されている点もあるので、諸学校では、奉読されないことになっている」と述べ、教育基本法と教育勅語を“補完併存”の関係として捉えていた当時の政府・文部省の公的見解を踏襲し、肯定している。
 つまり、「教育基本法と教育勅語は一時期、併存していた」論を日教組自身認めていたことは明らかであり、今になって否定するのは自己矛盾もはなはだしい。筆者を批判する前に自己批判から始めたらどうか。
 第二に、教育基本法の前文については、「個人の尊厳を重んじ、普遍的な文化の創造をめざしているが、『個性ゆたかな』という点には、民族的及び個人的なものが含まれているのである。普遍的理念が日本人によって追求されるとき、真に日本的となることができる」と述べている。
 第三に、教育基本法第一条(教育の目的)については、「『人格の完成』とは単に個人的なものでなくて、『日本国民性の充分表わされた文化の完成』という気持を持っているのである。・・・『国家及び社会の形成者』とあるが、その形成者とは単なるメンバーの意味だけでなくビルダーの意味が含まれている。そこに自ら、自分の国に親しみを感じ、それを一層よくしていこうとする祖国観念もにじみ出てこよう」と述べ、愛国心を内包した、教育の目的としての「人格の完成」の意義を強調している。
 昭和三十年代に入ってにわかに主張されはじめた日教組などによる同法擁護論は、「基本法の限界」を「運動によって克服」し、立法者の意志を歪曲し、恣意的に解釈することによって「民主的な解釈へと豊かに発展」(日教組資料)させようとするものであった。
 ところが、昭和五十年代に入り、「教基法制定三十周年」を迎えると、今度は一転して教基法の部分改正及び全面改正論が日教組の機関誌に掲載されるに至るのである。
 しかし、昭和五十九年に臨教審が発足するやいなやまたもや反転し、教育基本法を「不磨の大典」として神聖視し絶対化するようになり、今日もその延長線上にある。
 パンフは教育基本法を批判した梅根悟、星野安三郎両氏の主張や、日教組編集部『新教育の法規と解釈』の「まえがき」が組織決定に基づく日教組の見解ではない、と主張しているが、日教組が諮問した教育制度検討委員会の代表らが日教組の機関誌に載せた論文は個人的見解にすぎず、同「まえがき」も日教組編集部の見解であるとは詭弁にすぎない。
 「組織としての日教組の見解をまともに取り上げずに非難を繰り返している高橋氏の議論を、私たちは徹底して批判する必要がある」「極めて悪意に充ちた非難が込められており到底容認することができない」というのなら、なぜ十六年間も沈黙し続けてきたのか。
 
国会決議では排除できない教育勅語
 
 日教組が問題視した教育基本法と教育勅語の関係については、昭和六十一年一月二十三日の参議院決算委員会で取り上げられた。共産党の佐藤昭夫議員が「昨年の十一月六日の臨教審総会、ここで高橋史朗氏は、この補足的な説明を行って、教育基本法は立法の精神、立法者の意思を踏まえて今日的に解釈する必要がある、と述べたようでありますけれども・・・この高橋氏の主張というのは極めて危険、重大でありまして・・・教育基本法制定当時は教育基本法と教育勅語は『併存・補完するものと捉えていた。対立関係として捉えられたのは、戦後の教育基本法と戦前の『軍国主義』や『超国家主義であって教育勅語ではない』、こういう論が展開されているわけですけれども」として臨教審の教育基本法と教育勅語の関係についての認識を質した。
 これに対して文部省の齋藤諦淳氏は、「そのような事実関係を確認の上で、教育価値というものは教育基本法に求めるのであるという、会長がその趣旨のことを記者会見でも発言しているところでございます」と答弁している。
 では、確認された事実関係とは何か。筆者が臨教審で報告した教育基本法と教育勅語の関係は次の通りである。
 教育基本法の立法者意思は教育勅語を否定していなかったことは、第九十二回帝国議会において高橋誠一郎文相が「教育勅語とこの教育基本法との間には、矛盾と称すべきものはないのではないかと考えておる」「決してこれに盛られておる思想が全然誤っており、これに代わる新しいものをもってするという考えはもっていない」と答弁していることから明白である。しかし、占領軍民政局の口頭命令によって強要された昭和二十三年六月十九日の国会決議によって、教育勅語が全面的に否定されるに至ったのである。
 教育勅語を起草した井上毅は山県有朋総理へ以下の書簡を送っている。
 〈第一此勅語ハ他ノ普通ノ政事上ノ勅語ト同様一例ナルベカラズ・・・今日ノ立憲政體ノ主義ニ従ヘバ君主ハ臣民ノ良心ノ自由ニ干渉セズ・・・今勅諭ヲ發シテ教育ノ方向ヲ示サルルハ政事上ノ命令ト區別シテ社會上ノ君主ノ著作公告トシテ看ザルベカラズ・・・(『井上毅傳史科篇第二』二三一・二三二頁)〉
 このように教育勅語は、「政事上ノ命令ト區別シテ社會上ノ著作公告」として起草されたものであり、この方針は教育勅語に大臣の副署をしないことによって貫かれた。従って、教育勅語は憲法第九八条第一項にいう「この条規に反する詔勅」に該当しないのであるが、井上の意図に反して、教育勅語が文相に下賜されたため、「政事上ノ命令」「帝王ノ国務上ノ絶対命令」と誤解されるに至ったのである。衆議院決議が教育勅語を法的な「違憲諸勅」と誤解した背景には、このような明治以来の誤解、法的混乱が根強く存在していた。
 井上は教育勅語の起草にあたって「宗旨上ノ争端」「哲學上ノ理論」「政事上ノ臭味」「漢學上ノ口吻ト洋風ノ氣習」等を極力避けるため細心の注意を払ったが、後年の文部行政は「この枠外に教育すべき貴重な徳目はない」という不合理な権威主義的教条主義に固執し、「皇國今日教ヲ敷ク勅語ヲ除キテ外復タ人心ヲ服スルモノナシ」(芳川顕正『教育勅語渙発の由来』)と教育勅語を「唯一絶対視」したために、「政事上ノ命令」の如く歪められてしまったのである。
 要するに、教育勅語は天皇の御言葉であって法的な詔勅ではなく、国会決議で排除することはできないのである。教育基本法、学校教育法の施行によって、国民学校令以下十六の勅令及び法律が廃止され、教育勅語の精神を援用したそれまでの教育関係法律は法的効力を失ったが、教育勅語自体は法的効力を有しない故に、憲法第九八条第一項にいう「違憲詔勅」として排除される筋合いはなかったのである。
◇高橋 史朗(たかはし しろう)
1950年生まれ。
早稲田大学大学院修了。
スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員、明星大学助教授を経て現在、明星大学教授。


 
 
 
 
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