日本財団 図書館


1994/11/22 読売新聞朝刊
[論点]教育に必要な新たな歴史観 高橋史朗(寄稿)
 
 社会主義は崩壊し、冷戦構造も終わった。この時代の変化で、わが国の社会科教師の価値観、歴史観が根底から揺さぶられている中、「平和と民主主義」教育をリードしてきた民間教育研究団体が近現代史の書き直し作業に着手している。
 作業の中心になっている教育科学研究会の授業作り部会はさる八月、都内で「大東亜戦争は自衛戦争だった」をテーマに賛否に分かれてディベートを行った。討論者の多くが、近現代史に対する認識不足、自らの頭で考えた歴史観の欠如を認めた。
 湾岸戦争で、一国平和主義という幻想を生み出した戦後民主主義の欠陥に気付いたこと。近現代史への見方が根底から覆されたこと――が、このプロジェクトのきっかけになったようである。
 対日占領政策には、国家そのものを罪悪視する視点があった。戦後民主主義はそれを継承した。しかし、今や「日本は『侵略戦争』を行った犯罪国で歴史的罪人だから、謝罪しなければならない」といった贖罪(しょくざい)意識そのものを見直す必要があるのではないか。
 過日、マレーシアを訪問した村山首相に対しマハティール首相は、「五十年前のことについて日本が謝り続けていることは理解できない」「五十年前のことに補償を求めるなら、百年前、二百年前はどうだとなり、植民地宗主国に対する補償はどうする、となりかねない」との懸念を表明した。
 もちろん戦争について反省する必要がない、と言うのではない。悲惨な戦争の史実を冷静に分析し、厳しく反省しようというのだ。アジアにおける日本の近現代史は、欧米列強の帝国主義的植民地支配を抜きにして語ることはできない。
 先のディベートにおいて、参加者の一人は「日中戦争は侵略だったが、大東亜戦争は自衛戦争だった」と述べたが、中国、英、米、蘭、ソ連に対する内実の異なる戦争を、一括して「侵略戦争」と断罪することには問題がある。
 わが国の戦後の多くの歴史教科書は、日本の戦争犯罪を一方的に裁いた「東京裁判史観」に基づいて書かれている。しかし、内実の異なる戦争の細部を検証し、バランスのとれた近現代史に書き直す必要がある。
 ナチスを否定したニュルンベルク裁判、対独占領政策。そして国家、歴史、伝統文化そのものを否定した対日占領政策。この二つの比較考察も今後の研究課題だ。日本人に戦争の罪悪感を植えつけようと、終戦の年に占領軍の指示で新聞に連載された「太平洋戦争史」観の見直しも必要である。
 自らの頭で考えた歴史観が戦後教育を受けてきた私たちには欠けている。それ以外の歴史を知らず、「東京裁判史観」が日本の歴史そのものであったと固く信じて疑わなかったからである。
 東京裁判史観という「勝者の裁き」は、私たちを無意識のうちに拘束し続けてきた。わが国の教師は、この呪縛(じゅばく)から自由にならなければならない。他人の「借り物の言葉」でなく「自分の言葉」で、日本の近現代史について子どもたちに語りかける必要がある。
 実証的研究に基づいたバランスある歴史の見直しが今、重要なのである。冷めた含蓄のある議論は、政治的イデオロギーを超えて、十分な説得力を持っている。授業作り部会が着手したプロジェクトが、建設的で冷静な議論、新しい対話の場となって発展して欲しい。
 一方、日教組の「21世紀ビジョン委員会」の中間報告も、時代の変化に対応する新しい教育と教職員組合運動の在り方について、画期的な提案を行った。戦後五十年続いた不毛な対立に終止符を打ち、「新たな対話の場」を創(つく)り出していこうという芽が、教育界に着実に育ちつつある。
 芽を育てるには、これまでの一方的に責任を転嫁する姿勢を改める必要がある。中間報告では、強まる中央統制への抵抗拠点として、文部省や自民党に「全面抵抗、全面対決の姿勢」を採らざるを得なかったとしている。しかし、日教組運動が力の対決を挑んだから中央統制が強まったのも事実である。
 要するに、どちらも相手への抵抗策として政治的に対決してきたに過ぎない。教育の本質、教育現場の悩みを深く問い直す中から、現状を克服していこうとする建設的な姿勢が欠けていた点は同罪である。日教組は、文部省に全面対決するだけだった。文部省もこれを法律などで制度的に統制することに追われ、教育改革の実現に不可欠な条件整備の努力を怠ってきた。
 全国の教師は教育荒廃に関心を持ち、切実に悩んでいる。しかし、戦後教育界は、教育現場の中心的課題とはかけ離れた政治的イデオロギー的闘争に明け暮れた。
 この不毛の対立の犠牲になったのは、子どもたちである。戦後五十年を迎える今日、教育界の四五年体制、五五年体制からの脱却こそが求められている。
◇高橋 史朗(たかはし しろう)
1950年生まれ。
早稲田大学大学院修了。
スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員、明星大学助教授を経て現在、明星大学教授。

 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。

「読売新聞社の著作物について」








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION