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2000/05/07 毎日新聞朝刊
[時代の風]日本人の幼児化 理想と現実、混同の病状=作家・曽野綾子
 
 教育改革国民会議に出ていると、今の生々しい教育の現状を聞かされるので、非常に新鮮な解答にたどりつくことがある。
 日本の教育が予想以上に腐敗と荒廃の度合いを深めているということは、よく言われているが、病状が進んでいるのは何も学生だけではなくて、社会人も、父母も、皆が「おかしくなっている」と言う。もちろん、すべての人々は素質も育ちも受けた教育も環境も違うわけだから、原因の共通項はなかなか見つけにくい。しかし、ないわけではない。それは日本人の幼児化ということだ、と専門家は指摘する。
 幼児化は、大人が子供に適切な愛情と厳しさで接することをしなくなり、ただ甘やかしてご機嫌とりをした結果、子供のいやがることは一切させなかった結果である。
「ご飯の後片づけをしなさい」「ボク、宿題あんだよ」
「あいさつをしなさい」
「何であいさつなんかしなきゃなんないんだよ」
「テレビばかり見ていないで本を読みなさい」
「AちゃんもBちゃんもこの番組見てるよ」
 そこで大人は黙るのである。 幼児化を防ぐには、これらのことをすべて幼い時に、問答無用でさせる癖をつけることだろう。その時までならば、親が感情的にならない範囲で、軽い体罰も有効である。少し大きくなれば体罰などいらない。会話で十分である。
 あいさつをさせるのは、心ならずも、他者との最低のつながりを保つことを教えるためだ。食事の後片づけは、人間が生きるための基本的な営みの重要性を体で覚えさせるためだ。そしてテレビだけでなく本を読めというのは、バーチャルリアリティー(仮想現実)に頼ってどんどん実人生から離れることを防ぐためである。不思議なことに読書も直接体験ではないのだが、辛抱も身につき、哲学も残るのである。
 幼児性の特徴は幾つもあるが、周囲に関心が薄いこともその一つである。自分の病気には大騒ぎするが、他人の病気は痛くもかゆくもない。万引きをゲームだと思っているのは、自分がただで欲しいものを手に入れられる、ということがわかっているだけで、万引きをされた店の痛手は全く思いつかない、という点にある。
 幼児性のもう一つの特徴は、人間社会の不純の哀(かな)しさや優しさや香(かぐわ)しさを、全く理解しないことだ。幼児的人生はすべて単衣(ひとえ)で裏がない。だから、厚みもなければ強くもない。
 こんなことを書くだけで、政治家が嘘(うそ)をついたり、政治的理念など放置して派閥作りに狂奔(きょうほん)するのがいいのですか、などと言われてしまう。不純にもいろいろあるのだ。下世話な言い方をすると、下等の不純も上等の不純もある。不純というと一つの概念しか考えないのが、幼児性なのである。本当に有効な予防外交というものが、もしあり得たとしたら、それは上等な不純が功を奏したからである。
 幼児性はものの考え方にも、一つの病状を示すようになる。理想と現実を混同することである。この混同は、自分がその場に現実に引き出されない限り、それが嘘であることが証明されない、という安全保障を持っている。
 1992年のルワンダのフツ族によるツチ族の虐殺の時、あるフツ族の老女は、自分の娘がツチ族の男性と結婚して産んだ孫を殺した。「お前が本当にフツ族なら、ツチ族の血の入った孫を認めるわけがない。もし殺さないなら、お前を殺す」と言われたからであった。
 こうした実際にあった話を前にして、自分はこういう場合にも絶対に幼児を殺すことはしない、と自信を持てるのが幼児性である。「もし仮に自分が……であったなら」という仮定形になかなか現実の意味を持たせられないのが幼児性なのである。
 結果的に幼児性は相手を軽々と裁く。これも大きな特徴の一つである。それは、人間というものはなかなか相手を知り得ない、という恐れさえ知らないからである。あるいは自分もその立場になったら何をしでかすかわからない、という不安を持つ能力に欠けるからでもあろう。
 一方、幼児性は、社会と人間に対して不信を持つ勇気がない。不信という一種の不安定でおぞましい、しかし極めて人間的な防御本能を駆使することによって、初めて私たちは一つの信頼に到達することができる。したがって信じるまでの経過には、私たちの全人的な人間解釈の機能が長期間にわたって発揮されるわけだ。
 普通の場合、私たちは見知らぬ人、名前は知っていても個人的にその言動にふれたことのない人の生き方を信じる何の根拠もない。しかし幼児性は、さまざまな図式によって、人を判断し、それを信じる。その図式も時代の流れに動かされる。有名なら信じる。金持ちは悪人で、貧しい人は心がきれいだ。反権力は人間性に通じる、という具合だ。現実は、そのどれにもあてはまる人とあてはまらない人がいる、というだけのことだ。
 幼児性はオール・オア・ナッシング(すべてか無か)なのである。その中間のあいまいな部分の存在の意義を認めない。あるいは、差別をする人とされる人に分ける。しかしあらゆる人が、家柄、出身、姻戚(いんせき)関係、財産、能力、学歴、その他の要素をもとに、差別をされる立場とする立場を、時間的にくり返して生きているのである。ただこの世ですべての人が、それぞれの立場で必要で大切な存在だということがわかる時にだけ、人間は差別の感情などを超えるのである。
 平和は善人の間には生まれない、とあるカトリックの司祭が説教の時に語った。しかし悪人の間には平和が可能だという。それは人間が自分の中に十分に悪の部分を認識した時だけ、謙虚にもなり、相手の心も読め、用心をし、簡単には怒らずとがめず、結果として辛うじて平和が保たれる、という図式になるからだろう。つまり、そのような不純さの中で、初めて人間は幼児ではなく、真の大人になるのだが、日本人はそういう教育を全く行ってこなかったのである。
◇曽野綾子(その あやこ)
1931年生まれ。
聖心女子大学卒業。
作家。日本財団会長。


 
 
 
 
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