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1998/06/04 産経新聞夕刊
【日刊じゅく〜る】711号 「心の教育を考える」曽野綾子講演(下)
 
 子供たちの心の教育をめぐる曽野綾子さんの講演の後半、言葉にはますます熱がこもります。正義とは時々で変化する社会に対するものでなく、絶対である神や仏と自分の関係にあることをはじめ、豊富な海外経験をもとに私たち日本人の悪いクセや無知を指摘します。他人を簡単に信用すること、何でも人のせいにすること、国家や国旗への最低限の礼さえ尽くさない・・・。さらに所沢高校騒動を「日本だけですよ、ああいう変わったことを言っているのは」と批判し、人の前では立礼する基本的なしつけの必要さから、真の勇気とは、教育の責任はどこにあるかとはを感動的に説きます。
 
 正義という言葉があるんですね。
 正義は裁判が正確に行われる、えん罪がないとか少数民族が平等に扱われるとかそういうことに使われますけど、キリスト教社会ではそんなことは一つも言っていない。絶対神、仏様でもいい、その方と自分との関係だけだ。
 社会全体からお前は悪いことをしているといわれても、正しいこともある。社会からいいことしたねって言われても、動機が不純な場合もある。正義というのは神と自分との折り目正しい関係のみだ。世間の風評なんかどうでもいい。
 そういう教育も日本ではおそらくされなかったんです。されない理由をこのごろ聞いていると、全部人のせいにするんですね。文部省が悪い、教育委員会が悪い、学校の先生が悪い・・・。
 
 私は時々中近東やアフリカに行くんですけど、そこではそんなたわけたことを言っている人はだれもいない。
 おもしろいことがあるんですよ。向こうの国で「これは大丈夫か」って聞くでしょ。そうすると「ノー・プロブレム」「ドント・ウオーリー」と答えるでしょ。問題ない、気にするなって言われたら問題があるってことなんです。それくらい私たちは猜疑(さいぎ)心の塊になって生きなければならない。
 それなのに日本では、例えば誘拐事件があるとすると必ず投書が出ているんです。「人を信用できないとは何という悲しいことでしょう」と。
 知らない人を信用する方がよっぽどおかしいと世界中が思っているわけです。
 所沢高校というところで卒業式だか入学式のボイコット騒ぎがありました。そういう生徒たちは本当に“ご苦労なし”です。一度アフリカへ送ってやりたい。チャドという国は公用語はフランス語なんですけど、田舎へ行って「ボンジュール」なんて言っても通じませんよ。部族の言葉しかしゃべりませんから。
 そういうときにどうしたらいいかと言うと、国旗と国歌しかないんです。国旗が掲揚されているときには礼儀をただして、国歌が歌われたら、きちっとした礼を尽くす。それで全く言葉もできない人に対して、われわれは最低限の尊厳と礼儀を尽くすことができる。
 私たちは本当にその人に対する好意を見せようと思ってもなかなか難しい。その国のことをよく知らないと、どうにもならないんですね。ですからそこで国旗と国歌という最低の約束があって、日本以外のすべての国が国旗と国歌に対する厳正な態度を示す。
 日本だけですよ、ああいう変わったことを言っているのは。それも日本の先生方は教育なさらなかった。
 で、私がいつも思うんですけど、人が良くないって言い方はやめてですね、学校も先生も文部省も教育委員会も全部信用しなきゃいいんです。すべて自分で教育する。先生にたてつけというわけでなく、先生はこうおっしゃるけど、うちはこう思いますから、と。
 何といっても国旗があがったら、きちんと立ちなさい。王室や皇室の方がおみえになったら立つのが礼儀なんです。それを何もしつけない。野蛮人ですよ、それは。世界でもの笑いです。
 そういう教育をやってきた。だから私なら自分の息子には、あなたは何と言っても立ちなさい、といいます。それは何も総理大臣におべっかを使うとかそういうことじゃない。そういう教育をすることによって世界の人たちに対する基本的な尊敬の姿勢というものができる。
 
 日本人に一番欠けているものが勇気なんですね。勇気というものを終戦の時以来五十何年、日本人は捨ててしまったんです。
 どこの国にも、勇気というのは戦争の時に爆弾を抱えて敵陣に突っ込んでいくのだなんて思っている単純な人はいません。
 勇気とは、どれだけ自分として立ち止まるか、ということなんです。人はこう言っても、私はこうする。でもあなたはそうしたいなら、あなたも自分の信念に従ってやってください。そういうことです。
 どうぞ平和な時期にこそ、他に流されないでください。しかもほかの方の考えとか美学とか生活の態度とかに十分尊敬をもって、だけど学校がどう言おうが、先生がどう言おうが、文部省の指導がどうあろうが、自分たちはこう思い、自分の息子や娘たちにはこういうことをしたいと考える。教育する最大の責任者は自分なんです。その次が親です。
 一番責任があるのは当人です。学校がどうあろうと、その家のこうありたいという姿に従って勇気をもって教育してください。
 しかし、どの人にも必ず悲しみと苦しみがもたらされる、そういうものだという社会のしくみを知って、教育に取り組んでみてください。
 
 皆さん、いま日本はいい国なんです。不景気ですが。私これまでに百四カ国に行きましたが、こんなにいい国はないですよ。日本に生まれてありがたい、そればかり言っています。
 ですからもっともっと私たちの社会を良くして、イ神父が「受けるより与えるということの幸せを考えるように」とおっしゃったその言葉に再び戻っていきたいと思います。
◇曽野綾子(その あやこ)
1931年生まれ。
聖心女子大学卒業。
作家。日本財団会長。


 
 
 
 
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