2001年6月号 正論
教育基本法改正の是非を論ず
武蔵野女子大学教授 杉原誠四郎(すぎはらせいしろう)
はじめに
二月八日の産経新聞「正論」欄で、加藤寛氏が「教育基本法改正せずして教育改革できず」という一論を発表されている。そこで氏は「基本法は実は、教育勅語を前提にしていたから、これを廃止した以上、基本法は形骸にすぎない」と述べておられる。また同じく三月三日の「正論」欄で八木秀次氏が「道徳教育の理念補う教育基本法改正を」と題して教育基本法の「立法者意思は教育勅語を否定せず」と述べておられる。
教育学界の人ではない人たちからこのように言われるようになったことは、私として欣快にたえない。私が教育基本法に関する研究書『教育基本法―その制定過程と解釈』(協同出版)を刊行したのは昭和四十七年だった。当時、教育基本法は日教組の錦の御旗となっており、教育基本法の名のもとに、文部省の学習指導要領告示や教科書検定は教育基本法違反であるという運動が展開されている真っ最中であった。私は制定過程を調べて、日教組の言うような解釈は制定過程からは出てこない、教育基本法は教育勅語を尊重して制定されている、というようなことを明らかにした。
そんな本であるから、当時、教育学界、教育研究者のあいだでは無視され、この本の存在そのものが否定されつづけてきた。そして昭和五十九年の臨教審を経て、今日このように教育学界以外の人から、教育基本法は教育勅語を否定していないと言われて、隔世の感を抱くのである。
ともあれ、右の加藤氏の主張で指摘すべきは、教育基本法の改正にも手をつけないで、日本の現在の教育の荒廃に立ち向かえる改革ができるのかという主張である。要は、現在の日本の教育の荒廃をどのように深刻に受け止め、教育改革がいかに喫緊の課題であるかの認識の度合いにある。教育の荒廃をただごとではないと真剣に受け止め、教育改革がいかに喫緊の課題であるかを認識すれば、教育基本法の改正など必要ならば当然するということになるのではないか。
ただし、仮令、加藤氏のように教育基本法を改正したからといって、それで直ちに教育の荒廃が是正され、日本の教育が再生するというわけでないことも押さえておかなければならない。教育基本法を改正する際にも、教育基本法のどこをどのように改正するかということが問題となるが、その問題が解決して改正したとしても、それで教育の荒廃が直ちに止まるわけではない。
だが、現在の日本の教育の荒廃を前にして、初めから教育基本法は改正する必要はないなどと主張する人たちに対して言いたいのは、教育基本法をめぐる戦後の日本の教育の問題にあまりにも無知ではないかということである。
本来の教育基本法の理念
ところで教育基本法の改正を論議するとき、教育基本法がほんらい戦後の日本の教育に果たそうとした役割については、軽々しくは否定できないものがあることも忘れてはならない。教育改革国民会議で教育基本法改正に反対した委員たちの反対理由をつぶさには検討したことはないが、恐らくその一端は教育基本法の果たそうとした役割、理念についての認識があったからだろう。
私は昭和五十八年に、教育基本法に関する第二の著書を出版した。占領文書を検討して、教育基本法の制定過程を調べた『教育基本法の成立―「人格の完成」をめぐって』(日本評論社)である。そこで教育基本法の中核となる「人格の完成」について占領下の民主主義教育を目指した教育改革と関連させて次のように述べた。
《アメリカ側のもたらした「個人の尊厳」は「個人」を解放することはできるけれども、それ以上のことはできない。まして日本の教育の蓄積といったん遮断して行ったその教育改革は、いっそうこの欠陥を拡大してかかえ込むことになった。そのなかにあって田中[田中耕太郎文部大臣]は、教育の普遍的あり方を求めて、「個人」を解放すると同時に、あるべき人間像を忘れなかったのである。カトリック的自然法観に裏づけられた田中はそのことを主張したのである。
「人格の完成」を「教育の目的」とする教育基本法の立場は、当時日本側で進めようとした教育改革の方針からも飛躍があり、制定後現実の教育を引っ張っていく力がなく、ともすればアメリカ側が主導する教育改革のなかで無視されがちな存在となった教育基本法ではある。けれども「個人の尊厳」や「個人の価値」を認め、その点ではアメリカ側と同一歩調をとりながらも、しかしそのままで終わるのではなく、直ちにあるべき人間像を求めた教育基本法は、アメリカ側がもたらした教育改革の理念をたしかに超えていたのである》
つまり、教育基本法の教育基本法たるゆえんは、占領下で持ち込まれようとした、個人の尊重のみで突っ走る民主主義教育の原理の限界を越えようとしていたのであり、占領軍に押し付けられた教育改革のなかで、本来の教育のあるべき姿を求め、維持しようとしていたということである。
民主主義は人間の構成する社会の構成原理としては普遍的な原理と言ってよいであろう。したがってその原理のなかに含まれる個々の人間を個々の人間として尊重するという精神は、教育においても当然尊重されなければならない。が、そのように人間を個々に尊重するゆえに、民主主義の原理は教育においてかえってなじまないところがある。人間を個々に尊重するゆえにということの目的のためでもあるのだが、学校教育を中心とした子供の教育は、子供を尊重するゆえに、民主主義の原理とはなじまないところがあるのである。教育は現状の子供の状態に満足せず、より望ましい子供像を目指して努力する過程である。が、そのためには民主主義の原理にはなじまない押し付けや強制というものを手段として担保していなければならないのだ。
それは究極においては子供の一人一人を一人一人の人間として尊重するためのものであるが、教育するその時点にあっては、子供の意志を無視するかのように、押し付けをし、強制をしなければならないのである。そうしなければその目的は達成できない。未来の成人となっていくための発育と準備を行っている子供のための教育は、子供の自主性に基づいて行っているのではなく成人が社会的に行っている教育であり、方法上は民主主義の原理とは逆行しているのである。
教育基本法の改正は必要ないと主張する人たちも、教育基本法のこの点だけは見誤ってはいないであろう。
教育基本法は教育勅語を否定していない
先に書き出しのところで、加藤寛氏が「基本法は実は、教育勅語を前提にしていた」と述べたところを紹介した。
周知のように、昭和二十三年六月十九日、衆議院は「教育勅語等の排除に関する決議」を、参議院は、「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行った。そのために、今日のように教育基本法は教育勅語を否定してそれに代わるものとして制定されたというように理解されている。
が、本来の教育基本法からすれば、真実は真反対である。教育基本法は教育勅語への深い敬意のうえに制定された。というのも教育基本法を最初に構想し、教育基本法制定のための実質的推進者となった第一次吉田内閣の文相、田中耕太郎は、当時の文部省関係者のなかで最も強烈な教育勅語擁護論者であった。単なる擁護論者ではなく、田中はカトリック信仰に基づく強い信念をもった擁護論者であった。カトリシズム(普遍主義)の観点から、普遍的なものは普遍的なるゆえに尊重しなければならない、つまり教育勅語には普遍的徳目が掲げられており、日本という国家にあっては教育勅語を尊重しなければならないのだとしたのである。
田中は教育基本法が審議制定された昭和二十二年三月の最後の帝国議会ではすでに文部大臣ではなく、文部大臣は高橋誠一郎に代わっていたが、その高橋も教育基本法と教育勅語のあいだには矛盾はないと答弁していた。要するに、教育基本法は制定されるその瞬間まで教育勅語に深く敬意を寄せ、教育勅語の強い尊重のうえに誕生したものなのである。
しかるにそれから一年少し経って昭和二十二年六月十九日、衆参両議院は教育勅語に関する右のような決議を行ったのである。占領軍の指示による強いられた決議であった。しかもその指示は、教育を管轄した民間情報教育局によってではなく、国会を管轄した民政局によってであった。
教育を担当しない占領軍の部署がなぜこの時期にこのような決議を強制したのか。その裏には何人かの日本人の占領軍へのはたらきかけがあったものと推測できるのだが、それで私は、そのはたらきかけをした日本人はだれなのかアメリカで一度調べたことがある。しかしついに具体的な人名まで表す史料は見つからなかった。しかしあえて私の責任で言えば、そのなかに、当時、参議院議員であり、国会図書館開設に関係していた羽仁五郎が含まれていたと言ってよい。当時、教育勅語の謄本が全国各学校に残っており、この謄本を引き揚げるという課題が残っていたとは言えるのだが、それに合わせて、教育基本法の名において教育勅語の否定を国会決議として行わしめたのである。
時の参議院文教委員会の委員長は奇しくも教育基本法制定の基盤を作り、合わせて教育勅語を強く擁護した田中耕太郎であった。田中は、この強制に強く抵抗し、教育勅語の「排除」ならぬ「失効確認」を決議した。国会としては教育勅語の失効確認はできるが、それ以上のことはできないはずだという意味である。まさにそうであろう。が、衆議院は民政局の指示どおりに、「排除」の決議をした。しかもそれを教育基本法の名において決議した。ここに教育基本法における最も肝心なところが逆転してしまったのである。普遍性を貫き、普遍性ゆえに教育基本法は教育基本法であり、それゆえに教育勅語を擁護したにもかかわらず、教育基本法はその最も重大なところでむりやり逆転させられたのである。そのことから考えれば、加藤寛氏が言っているように、現在の教育基本法は形骸でしかないのである。
ともかくこうして教育基本法は最も重大なところが逆転させられたのであるから、そのことを考えれば、教育基本法は制定されるべきではなかったとさえ言えば言えるのである。少なくともそのような逆転の起こる可能性のある占領下では制定されるべきではなかったのである。
憲法教育の核心
(1)現行憲法の制定手続
加藤寛氏も先の「正論」で指摘していたが、教育基本法は憲法に基づいたものだから憲法を改正しなければ教育基本法も改正できないと主張する論がある。が、ここで、憲法教育における不明瞭さや誤解についても、正しておかなければならない。戦後教育において教育基本法をめぐる見過ごせない極めて重大な問題があるからである。
公教育においては、公教育そのものが、憲法、教育基本法に基づいて行われているものであるから、憲法教育は公教育の要となるものである。が、占領教育改革に端を発し形成された今日の日本の学校における憲法教育は、その本来の在り方から極めて深刻な乖離がある。
ところが憲法教育の問題は教育学であまり議論されたことがない。私も共著者の一人となっている『戦後教育の総合評価』(国書刊行会)で、憲法教育の執筆を担当し、改めてその重要性に気づいたのだが、憲法教育でまず問題にしなければならないのは、現行憲法に関するその制定手続の問題である。
講学的には、制定手続に関して(1)占領憲法論、(2)民定憲法論、(3)改正憲法論の三つの考え方が鼎立する。
まず占領憲法論であるが、これは、現行憲法は占領軍に押し付けられて制定したものだという主張で、これは史実に最も忠実な制定手続に関する考え方である。しかしこれを強調していけば、自由意志を表明しようにもしようのない占領下で、占領軍に押し付けられて制定したということになると、現行憲法それじたいの有効性が問題となり、結局は現行憲法無効論に帰結しなければならなくなる。国際法上もこの主張は正しいということになっている。が、子供たちに国家の成り立ちを法的に説明する学校における憲法教育において、現行憲法は無効であると教えることはやはりできないであろう。理論的にはいかに正しくても、公教育において実際には活用することのできない制定手続論であると言わなければならない。
次に民定憲法論を説明するが、これは現行憲法が、大日本帝国憲法の天皇主権を否定して国民主権としているので、ほんらい明治憲法の予定した改正の範囲を逸脱したもので、したがって明治憲法とは無関係に制定したものである、という制定論である。そしてその行き着くところは、日本に革命があって、日本国民が明治憲法とは関係なく、新たに制定したものであるということになる。その極めつけが憲法学者、宮沢俊義の唱えた八月革命説である。宮沢によれば日本には昭和二十年八月十五日連合国に降伏したとき、実質的に革命があって、すでに国民主権はこのとき成立していて、現行憲法はその国民主権のもとに日本国民によって新たに制定されたものということになる。この論は、現行憲法はほんらい明治憲法が予定した改正範囲を逸脱した改正であるという見解に対しては一つの説得力をもつことができる。が、しかし史実においては革命の事実は片鱗もないことに決定的な弱点がある。
日本はたしかに昭和二十年八月十五日連合国に対して降伏したけれども、それは天皇の名のもとに降伏したのであり、現行憲法草案を押し付けた占領軍最高司官マッカーサーも、押し付けたのは直接には天皇に対してであって、日本国民に対してではない。現行憲法制定には国民投票に類するものがいっさい行われなかったが、この事実も民定憲法論の根拠を決定的に弱める。したがって民定憲法論も、公教育のなかで採用することのできない制定手続の考え方である。
とすると、現行憲法制定の手続論としては、現行憲法は明治憲法の改正手続を経て制定されたという改正憲法論しか妥当しないということになる。史実に即していくと、現行憲法は明らかに明治憲法の改正手続に従って、制定されている。すなわち大日本帝国憲法七十三条によれば、明治憲法の改正は勅命をもって帝国議会の議に附して行うことになっていた。つまり明治憲法は、天皇の発議によってしか改正の手続は始まらず、そして帝国議会において所定の承認を得れば改正できた。したがって国民投票も必要なかった。
そしてその天皇が、仮令きっかけは占領軍によって押し付けられたとは言え、押し付けられたがゆえにではなく、主権者天皇がその改正内容においてそれでよしとし、天皇の憲法改正案としたのであるとすれば、それから憲法改正の手続が始まっても仕方ない。そしてそれに合わせて議会が所定の決議をしたのであればいたしかたない。これによっても占領軍に押し付けられたという史実が消えるわけではないが、心裡的には天皇の自由意志のなかで改正手続を進めたのだということにできなくはない。このことによって、占領下では憲法を制定することはできないという国際法上の難問も何とかクリアできる。たしかに占領軍に押し付けられたという事実を除けば、最も史実に合った制定手続に関する考え方である。
事実、この考え方は、現在の日本の国法全体の構造においても妥当する。現行憲法では、天皇には勅令を出す権能がないが、現在の日本の国法のなかには、明治憲法下で出された勅令がいくつか有効な法令として存在している。すなわち現行の国法体制は、明治憲法体制を引き継いでできているのである。そこからも現行憲法は明治憲法を経由して制定されたと言わざるをえない。
(2)現行憲法の正しい解釈
憲法改正手続の問題はそれだけの問題であって、大した問題ではないと思う人もいるかもしれない。が、さにあらず、現行憲法の解釈に当たって、その読み解く方向に大仰に言えば天と地ぐらいの違いが出てくる。現行憲法が明治憲法を改正して制定されたということになれば、改正された部分は改正されたとおりに解釈しなければならないが、改正されなかった部分については、明治憲法のもとであったとおりに解釈しなければならないということになる。国法に対する解釈の体制が明治憲法を経由しながら解釈するという体制に変わってくる。現行憲法の、前文や各条文を解釈する際の根本にかかわる問題である。
それでまず最初に問題になるのが、一条にある天皇の「象徴」の意味についてである。憲法学のうえで、「象徴」なる言葉は君主の属性を表す言葉であり、したがって天皇は日本国の君主であるという意味である。事実、占領下で昭和二十四年、占領軍の承認のもとで発行した文部省の教科書では「日本は君主国である」とはっきり説明していた。つまり日本国民は主権を保持しているということで、「主権在民」であるが、それは天皇を君主とした「天皇象徴制主権在民」なのである。現在の憲法を解釈するとき、この原点を見落とすことはできない。
しかしながら、現在の公教育における憲法教育において、この点を明瞭にしているだろうか。はなはだあいまいにしているのが実情ではないか。極端に至っては、天皇の存在を民主主義と矛盾するかのように教える例もあるのではないか。君主と民主主義が矛盾するものでないことは、イギリスやスウェーデンの例を待つまでもなく明らかなことであるが、憲法制定の手続について正しい認識を欠くと、このような考え方にも一理あるように思えたりする。そのため天皇の徳を歌った「君が代」が国歌にふさわしくないというような誤解も生まれたりする。憲法に基づく公教育と言いながら、その肝心の憲法教育において最も基本的とも言うべき「天皇象徴制主権在民」についてあいまいにしているからだ。
余談ながら、日本の学校における憲法教育のこの点の問題にっいて、憲法学者、宮沢俊義の責任について触れておかなければならない。宮沢はすでに戦前より東京帝国大学法学部の憲法学の教授であり、ほんらい大日本帝国憲法の擁護論者で、その改正にはおのずと逸脱できない改正の範囲があるという見解をもっていた。またそれゆえに幣原内閣のもとで憲法改正問題を扱ったいわゆる松本委員会の筆頭委員を務めたのである。そしてそれゆえにここで作成した憲法改正案はマッカーサーによって非民主的と断定されて、マッカーサーの憲法草案の押し付けとなったのである。
宮沢は憲法改正後も一時、明治憲法を基盤にしながら、その改正手続に従って改正したとする解説書を発行したことがあったが、これも占領軍のお墨付きの文部省の憲法解説書から距離があり、宮沢は憲法学者として窮地に立っていた。そこで宮沢は、先に述べた八月革命説を唱えたのである。不可抗力の革命があったとすれば、それまでの宮沢の責任はすべて洗い流されることになるから、宮沢にとっては極めて都合のよい理論である。そしてそれ以後、東京大学法学部教授として、天皇は「ロボット」であるというような言い方をして天皇を貶める解釈を世間にふりまいたのである。
公教育における憲法教育で次に問題とすべきは、現行憲法九条の戦争放棄の条文の解釈である。九条にあるように、日本は国際紛争を解決する手段としては戦争を放棄している。しかし自衛戦争まで放棄してはいない。事実、自衛に必要な軍隊を、自衛隊として保有している。
しかるに現在、日本はこの戦争放棄の九条を盾にして、他国が侵略されたとき、その国に自衛隊を戦力を行使する組織として派遣することはできないという解釈を国家の公定解釈としている。現行憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあり、そのために、必ずしも独力で自衛するための巨大な戦力は必要としないとして最小限の自衛力しか保持しないことになっている。つまり、日本が侵略されたときには他国が助けにきてくれるであろうことを前提として、最小限の自衛力を保持するに止めながら、その他国が侵略されたときには助けに行かないという極めて身勝手な解釈を国家の解釈としている。これは公教育では子供たちに教えられない解釈であると言うよりほかはない。
ところでこのような九条の戦争放棄の解釈は占領軍に押し付けられてやむをえず行った解釈であろうか。さにあらず、現行憲法前文には「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって」とあって、身勝手な解釈をしてはならないことを間接的に表明している。この解釈については、占領下、吉田茂内閣のもとで発足した内閣法制局が吉田の主導のもとに形成し、固定させた解釈である。つまり、この解釈は、占領下で日本側がこの九条の戦争放棄の条文に悪乗りして、形成し、固定させた日本の自主的解釈なのである。
で、この戦争放棄の条文にかかわる自衛権の問題が中心となって、さらにこじれた決定的問題が憲法教育に残った。というのはこの自衛権の問題が一つの大きな問題になって現行憲法を改正すべく、昭和三十二年から昭和三十九年にわたって憲法調査会が設置された。この憲法調査会は精力的に憲法改正につき審議したが、結局は改正にこぎつけることはできなかった。それだけで終わればそれでまだよかったのだが、憲法調査会はいちおう憲法改正を前提に審議したために、その間、現行憲法に関する誤った解釈を放置してしまった。そして、抱薪救火(薪を抱きて火を救う)、憲法を改正しようとしたことが、かえって新憲法の誤った解釈を野放しにし、そうした誤った解釈が社会に広く定着するのを助けてしまったのである。
学校教育における憲法教育は、このような憲法改正の問題とはひとまず距離を置いて、憲法改正の審議のあいだも本来の憲法解釈を行うよう努力すべきであった。が、そのことに気づく教育関係者はおらず、これは教育関係者の戦後教育における重大な失態と言わなければならなくなっている。
道徳教育の過ち
現在の日本の教育の荒廃を見るにつけ、道徳教育の問題も深刻である。だが、道徳教育の問題を論じるのは難しい。いわゆる道徳を十分に身につけている成人は事実上は皆無であるからだ。広い意味で子供の教育にかかわるすべての成人は、原則として、大なり小なり道徳的に破綻している。
それでも子供たちに道徳教育をしなければならない理由は何か。またどうして道徳的に不完全な人間が、大人が、どうして教えることが可能となるのか。それは簡単に言えば、道徳教育には子供たちを幸せにする力があるからだ。道徳教育は近視眼的に見れば、本人が守りたくないことを社会的な必要から無理に守らせるための教育かのように見られる。たしかに社会的な必要からも考えなければならないのではあるが、道徳教育の成果を最も享受するのは、道徳教育を受けたその子供自身である。例えば、「正直」という徳目で考えよう。瞬間的には正直にすれば困ることがあるから人間は正直の反対の嘘をつくという行為をする。そして瞬間的にはその嘘で利益を得る。大人のつく嘘もたいていはそのようになっている。
だが、嘘をつくのが平気になって、いつも嘘をついていたらどうなるか。その子供は周囲から信頼されなくなり、周りの人から相手にされなくなる。つまり、少し長い時間で見ると、嘘をつくことによっていちばん不利益を被っているのは嘘をつく子供自身なのである。嘘をつかないのは先ほど述べたように瞬間的には損をする。それでも嘘をつかないためには、強い意志と、その意志が自然に心のなかに湧いてきて消えないような心の訓練が必要である。その訓練を子供たちが自主的にすることははなはだ困難で非能率である。したがって子供の教育にあっては、仮令、教師が道徳的に不完全であろうと、子供たちのために道徳教育をしてやらなければならない。そしてそれが社会的に見ても子供たちが成人になったとき、住みやすい社会を提供することになり、その点でも道徳教育は子供たちの幸福につながっている。
だとしたら、道徳教育は、できるだけ効果的に有効的に実践しなければならない。
しかしながら、である。占領教育改革に端を発した現行の道徳教育は、いくら努力をしてもほとんど効果のないものとなっていることをここで確認しなければならない。
周知のように、昭和二十年十二月三十一日、日本は占領軍より「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」なる指令を受けた。この指令によって、戦前の日本の道徳教育の教科である修身が停止された。そしてその後、社会科という教科が新設されて、道徳教育はそのなかで行われるのだとして修身は再開されないままに終わった。このことによって、修身は民主主義の教育にふさわしくないので占領軍によって廃止されたという誤解が生まれ、修身は復活不可能な教科となって日本の教育から消えていった。
真相はどうであったか。実は真反対なのである。右の修身停止指令を起草した占領軍の民間情報教育局の教育課員ロバート・キング・ホールは、戦争中の修身の教科書を調査して、日本の道徳は民主化を進める占領軍にとって受け入れられないものだという非難は根拠のないものだ、と結論づけていたのである。ホールは戦争中の修身の教科書を丹念に調べていった。そうすると、修身の教科書に載っている徳目のほとんどは、民主主義社会でも依然と守られるべき徳目であり、したがって修身の教科書は禁止するに値するものではないという結論になったのである。
にもかかわらず修身停止の指令を出したのは、日本の道徳は本質的に受け入れられないものだという占領当局の圧力のなかで、評判となり、見せ場となる見せしめの懲罰行為として行ったのだというのである。したがってこのときの指令は廃止などはいささかも前提にしていなかった。あくまでも停止の指令であって、廃止の指令ではなかった。事実、他の日本歴史や地理は、教科書の刷新によってその後再開されている。
とすれば、修身のみはなぜ廃止となったのか。ここで当時、東京帝国大学文学部教育学科助教授、海後宗臣の行跡に触れていかざるをえない。当時の東京帝国大学の教育学の助教授と言えば、戦争中は国策に従って戦争協力をしていたはずである。事実、海後は熱心に協力していた。そこで海後は敗戦後、教職追放になる可能性が十分にあった。そのため海後は敗戦後、逸早く占領軍に近づき、修身の指令に関する提案をするのである。そして停止の指令後は、占領軍が社会科についてまだいささかも考えていなかったのに、社会科新設のための実験授業に邁進する。そのために占領軍のなかでも、社会科は子供たちの生活に根差した教科で民主主義の教育にふさわしい教科だということになり、社会科新設の方向に向かう。そしてこの社会科は理論上、道徳教育を含んだものであったから、とすれば、修身を再開する必要はないということになる。こうして修身は再開されないままに終わったのである。
社会科には社会科なりに優れた意味のある部分があるのであるが、修身は非民主的であるから占領軍によって廃止されたという、ゆえのない誤った観念を作り出したことにおいて教育史上大きな問題がある。
考えてみれば、修身は江戸時代以来の、否、日本有史以来の道徳教育の結晶のような教科であった。これに代わる社会科が理想どおりの成果をあげるならば問題はないが、社会科にはもともと原理的に理論と実践のあいだの乖離が大きくあり、道徳教育的にはあまり力がなかった。
こうして日本古来の教育を踏まえて形成されていた修身はなくなり、日本の道徳教育は崩壊するのである。そして道徳教育を再建しようとして何か提言しようとすると、それは当然ながら、修身における実践に近しくなる。そうすると修身の復活だとして、先の誤解のもとに非難が寄せられ、実を結ばないことになる。先の教育勅語と合わせて日本の道徳教育の再建は不可能となったのである。
宗教教育の再興
戦後の日本の教育を通観して見たとき、宗教心にかかわる教育、つまり宗教教育の衰退も見逃せないことである。これを放置している日本の教育学は教育学としての役割を果たしていないということになるのだが、ともかく現在の日本の教育の宗教教育の実情は悲惨である。
言うまでもなく、子供の健全な育成を図る教育において、心の教育をしない教育は形骸としての教育である。そして広い意味での宗教教育なくして心の教育は不可能である。
そもそも宗教心とは何か。最も分かりやすく言えば、それは心の最も深いところから来る自己愛であると言わなければならない。人間は誰もが意識的に生まれてきたわけではないが、すでに存在してしまえば、自己の存在を反省的に意識し、その存在が有限であることを意識し、そんな自己を心の最も深いところから愛する心のはたらきがある。それが宗教心の原点なのだ。したがってその心は自己を最も広い大きなところから見、自己を統合するはたらきともなる。それゆえ、宗教心にかかわる教育は、心の教育の核心になると言えるのである。
そして宗教心にかかわることを社会的、歴史的、文化的に見れば、社会にはそこに生きる人々の宗教心を起点にしながら、現実を超えたところから現実を認識する共通の認識体系、つまり、社会的に言うところのいわゆる宗教が生まれる。そして現代のように高度な社会では一つの社会に複数の宗教が生まれ、宗教は宗派宗教としても複数的にも存在するようになる。宗教は、自然科学のごときほどには回答は一様ではないので、一つの社会に複数の宗派宗教が存在してもいたしかたないのである。そして近代以降の国家では、その複数の宗派宗教のどれをよしとするかは、国民一人一人の信仰に委ねることを原則としている。
つまり信教の自由、または信仰の自由のことである。そしてその結果として、宗派宗教に対して国家は中立を保つということになる。この、国家の宗派宗教に対する中立を政教分離の原則として言われている。そこで国家的に行う教育、つまり公教育で、特に公立学校においては、宗派宗教教育は禁止せざるをえなくなる。現行憲法二十条はそのことを明確に規定している。
だがこのとき、もし、その政教分離の規定、つまり公立学校における宗派宗教教育の禁止規定を過度に受け入れればどういうことになるか。過度に取り入れると、言わずもがなであるが、あらゆる宗教教育を公立学校から排除することになる。と言うのは、社会は、歴史的であり、文化的であるから、そこに生じたすべての宗教的観念や行為は事実上どこかの宗派宗教に何らかのかかわりをもたざるをえない。宗教は先ほども述べたように、人間の自己愛から生じたものであるから、ほんらい中途半端なものではない。宗派宗教がその総計においていまだ取り込んでいない、優れた宗教的観念とか行為というものはもはやないと言うべきである。政教分離の規定、つまり公立学校における宗派宗教教育禁止の規定を過度に取り入れれば、あらゆる意味での宗教教育を排除することになる。つまり原則的に宗教心にかかわる教育はいっさい不可能になるということである。
なるほど憲法二十条には「国及びその機関は、宗教教育その他一切の宗教的活動もしてはならない」とあり、文言上、あらゆる意味での宗教教育を禁止したかのようにも読み取れる規定となっている。しかしそのような意味に取れば、教育の普遍性が損なわれ、教育が成り立たなくなる。教育に関する権利を人権として規定している憲法がそのように教育が教育として成り立たなくなる馬鹿げたことを規定しているはずはない。
昭和二十一年八月十五日、憲法を改正する帝国議会の審議のなかで、「此ノ条項ハ、明瞭ニ一宗一派ニ偏ツテ教義ヲ教ヘテハナラナイト規定スルカ、或ハ斯カル意味デアル旨ノ解釈ヲ後世ノ為ニ誤リナキヤウニシテ置クベキデアル」として「宗教的情操教育ニ関スル決議」を行っている。
教育基本法九条にも宗教教育に関する規定がある。この条文の最初の草案では「宗教的情操の涵養は、教育上これを重視しなければならない」と、宗教教育の重要性をことさらに謳っていた。制定過程で占領軍の「宗教的情操」の言葉に対する誤解で現行のような規定になったが、しかしそれでも宗教教育の尊重の精神は貫かれている。
事実、昭和二十二年に出た最初の学習指導要領では、宗教教育の実践例を極めて詳細に提示していた。しかるに、占領期、昭和二十年十二月十五日のいわゆる神道指令「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」の影響でその学習指導要領の実践例は実施できなくなり、そして占領解除後は、神道指令はなくなったのにもかかわらず、憲法二十条の規定が独り歩きするようになり、今日の宗教教育は皆無に近い教育状況になってしまったのである。ここにも公教育における憲法の解釈の問題があり、そして教育基本法の本来の精神にはなはだしく悖る状態が生まれ、そしてそれが放置されている状態が生まれているのである。
まとめ
こうして教育基本法をめぐる戦後の教育体制を見てみると、今日の教育はとめどなく崩壊するような構造にできていることが分かる。道徳教育という一点に絞ってみても、その観点で普遍的教育を目指そうと努力すれば、当然、何らかの形で、教育勅語や修身に近しいものとなる。しかしそうすると、教育勅語や修身の復活であるということになって非難を受けて日の目を見ることができなくなるのである。そして個性尊重とか自主性の尊重とか、教育勅語や修身に衝突しにくいもののみは実行に移されていく。教育は普遍性から遠ざかっていくばかりである。教育基本法と深くかかわりのある憲法教育の問題では、その根本をあまりにあいまいにし、誤った状態を放置しているので、憲法教育じたいが国家を瓦解に向けて誘導しているとしか言いようのない状態にある。
今日の教育の荒廃に関する問題は、このような教育基本法をめぐる、あるいは憲法の解釈を含む戦後の教育体制の問題ばかりではない。文明文化が発達して社会が豊かになりすぎ、子供の健全な成長発達には途方もなく不都合な社会になっていることだ。現在の教育の荒廃は、高度に発達した文明社会に根差すものも大きく、一筋縄では解決しない。
しかし、戦後に作り出した教育体制じたいに憲法や教育基本法の本来の在り方をねじ曲げ、普遍性のある教育から遠ざかるような構造ができあがっていることはたしかだ。体制じたいに教育の再生を不可能にする構造ができあがっているのである。
本論は教育基本法の改正の是非を諭ずることであった。ここで結論の一つがはっきりする。教育基本法の改正の是非をめぐって、もし改正に反対するのであるならば、憲法も含めたところの本来の教育基本法体制とは何であったのか、そのことを明らかにして、そのなかにその改正反対論を位置づけることが必要なのではないか。そのことをあいまいにしては、何をもって教育基本法を守れと言っているのか、何をもって改正反対と言っているのか分からなくなる。
◇杉原 誠四郎(すぎはら せいしろう)
1941年生まれ。
東京大学大学院修了。
城西大学教授を経て現在、武蔵野大学教授。
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