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1995/10/06 読売新聞朝刊
[戦後教育は変わるのか](4)小浜逸郎氏に聞く 学校の機能に限界(連載)
 
――日教組と文部省の「和解」には、どんな意味があるのでしょうか。
 小浜氏 日本では何事も外側の大きな枠組みに依存し、中身を自分たちで改革できない。そして、その枠組みが崩れると、また違った方向へみんなでわーっと行ってしまう。今回の「和解」も同じで、五五年体制という枠組みが崩れたあおりに過ぎません。
 第一、イデオロギーの対立で教育をとらえられる時代は十年以上も前に終わっています。一九八〇年代に入り、校内暴力やいじめなど、それまで見られなかった様々な現象が起きてきました。また、中堅以下の高校では生徒が授業を聞こうとしない。そうした変化は、イデオロギー的なものとは無縁です。
 それなのに、学校で今、何が起きているのか、それはなぜなのか、父母、行政、マスコミなどと現場との間に深刻なコミュニケーション・ギャップがあり、その中で先生たちが疲れきる、そうした状態がずっと続いています。
 
◆子供を包むけん怠 校外に補う場必要
――では、いじめや授業の不成立などの問題は、どうして起きるようになったのですか。
小浜氏 日本の近代の公教育の目的の一つは、国を支える人材をつくり出すこと、二つ目は、一人ひとりが自由で豊かな生活を確保する手助けをするというものでした。そして、二つ目の目的は七〇年代にほとんど達成されました。
 生活が貧困で、明らかな階級差を抱えている時代には、学校は生徒のハングリーな思いを吸収し、学校に通うことが生徒の将来のためになるという機能を果たします。しかし、個人の豊かな生活が保証されるようになって、生徒が学校に苦労して通う意義がなくなってきた。そこから子供たちの学校へのけん怠が始まりました。
 いじめは中学二年のときに起きることが多く、三年になると減ります。それは受験が迫っていることが緊張した精神状態をもたらすことにもよります。また、みんなが一元的な価値観を持ち、それに向かって発展しようとしている社会では、いじめ、不登校など、けん怠がもたらす現象は起きません。いじめは受験競争の激化のせいだとか、人権教育が足りないせいだとか、そうした決まり文句では何も分かりません。
 かつては、番長やガキ大将がいて、学校に不満な人間を集めましたが、今、それすらありません。子供が学校や教師に権威を感じなくなり、反体制集団としての番長グループも成り立たなくなったのです。
 新任の先生が組合に入らないのも、若い世代に個人主義が浸透し、集団性を軸にした人間のつながり方に絶望しているところがあるからです。それを、社会党が自衛隊肯定で失地回復をしようとした同じパターンをとることで、失地回復ができるのか、疑問です。
 
――学校の問題に、社会的、時代的な背景があるとすると、どうすればよいのですか。
小浜氏 日教組の運動方針は相変わらず、国による教育、公の教育に子供たちを抱え込む方向を打ち出しています。しかし今、子どもたちは、学校の統制枠からはみ出したところで、様々な行動をとり、知識を持つようになってきています。子供と教師の離反、教師の個人主義を現実として受け入れたところで問題を考えなくてはならない。
 読み書きそろばんだけでなく情操教育、スポーツ、生活指導など、子供の生活のすべてを公教育に抱え込むのは、もう無理です。むしろ、学校の機能を縮小し、若者たちのすう勢を受け入れ、様々な教育機能を学校の外に育てることを考えなければならない。
 学校でも、仲のよいクラスの友達関係をまずつくって、などと集団主義の理念で考えるから、いじめを長引かせてしまう。クラスを固定せず、単位制を小学校の高学年から導入し、学校生活の中で、いろんな人間関係をもてるようにするべきです。一生涯、一つの村にいるなんてことは今はもうないのです。
 経済界の方が、今の学校問題を直観的につかんでいます。経済同友会は、学校は基礎基本を教えるところとし、その周辺に多彩なカリキュラムを用意して生徒に自由選択させる「自由教室」を設けることを提言しています。一つの方法だと思います。(聞き手・勝方 信一)(おわり)

 
 
 
 
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