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1999年7月号 正論
学校再生の出発点
普通の子の崩壊にどう立ち向かうか
 
プロ教師の会●河上亮一(かわかみ・りょういち)
VS
評論家●小浜逸郎(こはま・いつお)
 
<<混迷をきわめる日本の教育界。それを象徴するように教育書の出版が盛んだ。中でも『学校崩壊』(草思社)は三十万部を超えてまだ売れ続けている。著者は「プロ教師の会」を主宰し、「金八先生」待望論を批判するなど、現場から具体的な発言を続けてきた河上亮一氏。河上氏は、この著書の中で普通の子供たちこそ現在の問題の核心にいると指摘する。今回は、以前から河上氏の発言に注目していた評論家の小浜逸郎氏を相手に、「崩壊する子供たち」に社会、親、地域、教師がどう立ち向かっていけばよいか、存分に語ってもらった。なお対談は四月二十九日、東京・大手町の産経新聞社『正論』編集部で行われた>>
 
社会の変化に伴う子供たちの変質
 
小浜 学校についての現状認識は、前から河上先生とほとんど共通してると思います。河上先生の『学校崩壊』では、(学校の崩壊は)ここ十年ぐらいという言われ方をされてますが、社会背景として見た場合には、おそらくもっと前から連続しているであろうと僕は思っているんですね。
 あと、受験競争の圧力という問題を学校崩壊と結びつけるのはちょっと違うと思う。河上先生はそういうふうにはおっしゃっていませんが、そういう考え方が根強くありますよね。大体人権派の人たちというのは、必ず受験競争のストレスや管理教育が子供を苦しめているのだという文脈で子供の問題をとらえようとする。でも、それはたぶん違うだろうということですね。
 きょうはいろいろデータをもってきました。まず、現実には競争圧力は緩んでいます。また産経新聞の記事に小中高の先生方で精神的疾患で休職しているのが昭和五十年代に比べて三倍になってる。それから、子供の犯罪が非常に増えてるという印象がありますが、犯罪統計を調べてみますと減っているんです。そういうことを客観的にベースにして、どう考えるかという話ができたらと思います。河上先生とはそのへんでは必ずかみあうだろうと確信を持ってますから(笑い)。人が違いますと、自分の一面的に見たイメージだけもってきてああだこうだという論を立てますから。マスコミなどもある角度だけを拡大してとらえて、こういう感じで大変だという報道しますからね。
『学校崩壊』というタイトルは強烈なインパクトがあって、それはそれでいいのですが、すべての学校が崩壊してるのかという議論もあると思うんです。河上先生もそうじゃないんだという考えをお持ちだと思うんですよ。そのへんの多様な実態をきちっと言っていただいて、そのうえでどうすれば学校が再生できるのか話せればと思ってます。
 河上先生は現場で長くやっていらっしゃって、具体的に子供と接してこられたわけですから、ここに書かれてる「教室風景」に関しては、たぶんこのとおりだと思うんです。しかし、八○年代初めぐらいに校内暴力があって、それは全共闘運動のいわば中学版だとおっしゃられているんだけれども、そういうとらえ方をすると、なんとなく大人社会の圧力に対する反抗という形で、それを正当化するニュアンスが感じられないでもないんですよね。僕はあまりそれを正当化する気はありません。校内暴力は統計上一回谷があったかもしれませんけどまた上がっていますね。これはむしろ、『学校崩壊』の主要なトーンになっていますが、社会の大きな変化によって子供が変わったんだという文脈でとらえたほうがいいのではないかという気がしました。
 
河上 本で(現在にいたる流れは)十数年前(に始まった)みたいな書き方をしてるのは、校内暴力が終わったあたりのところでいったん切って、自分なりに少しまとめてみようということだったんです。
 
外部の声にふりまわされた教師
 
小浜 少年犯罪の数字を調べてみますと、いまの子はすぐキレるというような言い方で、マスコミがある部分だけ拡大して報道するため、少年犯罪がすごく増えているかのようなイメージが流れてるんですが、これは全然違っています。ピーク時(昭和三十年代後半)と平成八年を比べてみると、殺人が当時に比べて四分の一、強盗が三分の一、暴行が七分の一ぐらい、強姦のピーク時が四千六百件なんですけど、いま二百数十。ですからいわゆる学校の荒れ現象や学校崩壊現象みたいなものと、極端な少年犯罪の報道を直結させて考えてはいけない。そのことをふまえつつ、じゃあ現状はどうなんだという話をしないといけないと思うんですね。
 
河上 私なんかこういう一般的な数字にそんな強い関心はなくて、学校内の関心のほうが強いんですね。これは職業柄、もうちょっとはっきりいっちゃえば、外でやることについては基本的には学校はなかなか手を出せない状況がありますから。私が三十年ぐらい前から見ていて、学校内の事件に関しては、圧倒的に増えてると思うんですよ。だから外側の十五歳〜二十歳までの少年が何かするかどうかということは、ちょっと私は領域外だという感じがするんですね。
 ただ、中学校で中学生が事件を起こすということに関していえば、少なくとも校内暴力の時代がやっぱり一番多かったんですね。例えば最初の学校にいたころに(一九六六―七五年)、ナイフというかドスに近いものを学校に持ってくる生徒がいましたからね。ただその子が学校でそれを抜いてなにかをするというわけではない。そういう子もいましたけど、学校というのはある種安全な場所だったと思うんですよ。それが校内暴力のあの時期(八〇年代前半)に安全な場所ではもうないということが一回確認されて、そのあと警察力をどんどん入れて一番危ない生徒を少年院に送るとか、教務院へ入れるといったことをやりながら抑えていったわけです。『学校崩壊』では、静かになっていったところを中心に書いたわけですが、いわゆる番長組織も解体していって、二度とそういうものが学校内で作られることはなかったようですね。
 そのあたりから、生活のあかのついた子供たちが、学校に見えなくなってきて、ノッペラボウというか、みんな同じような感じになってきたんですね。
 それと同時に、教師にとって子供の見極めができない状態になってきて、突然その子がいろんなことをするという、そういう時代になったと思うんですよね。校内暴力時代には、こういう生徒はたぶんこういうことをするだろう、たぶん暴力事件を起こすだろうというような予測がついたということがあったと思うんですが、いまその予測がつかなくなったということと、それから相手に対してどういう理由でそうするのかとか、理由がよくわからない。もう一つは暴力そのものが歯止めがきかない状態というか、大けがをさせるようなところまでめちゃくちゃに突き進む。
 
小浜 それは本にお書きになってますけど、昔はこういう警察沙汰の事件は学校の外であって、学校は子供が加害者になったり被害者になったりするのを防ぐという位置づけだったし、実際にそれが機能していた。でもなんかその境目がぐちゃぐちゃになって、子供を保護する空間としての学校という概念があまり成り立たなくなったとはいえるんでしょうね。
 だから少年刑法犯の検挙人員は少ないけれども、警察沙汰にならないレベルで、先生方の努力で事を収めているケースが相当多いのではないかと思っています。ですから現実には小さなトラブルがものすごく増えているんじゃないかという印象を持ってるんですね。
 
河上 小浜さんが指摘されたように、最近中学校では「新しい暴力」、新しいって校内暴力と一応区別する意味でそういうふうにいうのですが、それが増えています。日常的にそういうことがある状態なんですよ。しかもそれは事件になるほどではない。そういうものは私たちとしてはカウントしない。
 
小浜 しちゃうとかえってよくない。
 
河上 しかもそれが、教師の立場でいえばそれが蓄積されないんですね。例えば人を殴ってこういうことがあった。それを指導しますよね。本人も「まずかった」とかりに言うとしますね。しかしそれはまたあるんですね。
 
小浜 学習がないんですね。
 
河上 学習がないんですよ。例えば、こういう状況のときに、こういう暴力的なことを起こした。それはまずかった。しかし、今回は違う状況だからやったんだと。そういうふうには言いませんけど、自分で自分の欲望とか暴力性を抑えなくちゃいけないというふうにはなかなかならない。
 
小浜 よくわかるような気がしますね。
 
河上 そこが私たちの疲れる決定的要因ですね。
 
小浜 しかもその苦労が評価されないですね。
 
河上 それは当然そうですね。評価されなくても、生徒が自分で抑える力をつけていってくれれば、教師としては自己満足できるんですね。なんとか自分の力が及んだと。ところがそっちもうまくいかないし、それだけ教師が一生懸命追っかけっこしてるけれども、だらしないんじゃないか、もっとやれという圧力が強いわけですね。これはほんと疲れることですね。
 
小浜 一方で自由にしろといいながら、一方でだらしないからもっときちんと指導しろと。現場の先生としてはどうしていいかわからないですよね。
 
河上 この十数年それに振り回されたという感が強いですね。私も、評論家とかマスコミの学校や教師に対する注文や批判を、なるべく真正面から考えなくちゃいけないと一時期ずっと思ったんですけどね。ところが状況が変わるところって変わりますから、同じ人がまったく違った言い方をされるんですね。その人がそれを意図的にやってるならまだわからないでもない。でも、ほとんどそういうことを考えないでやつていらっしゃる。
 最近はそう思わないようにしてるんですけれど、少なくとも世の中に対して発言してるんだから、もう少し一貫性があっていいんじゃないかと、ずっと思っています。
 
小浜 そういう人いますよ。手のひら返したような、この局面ではマスメディアでこういう発言をして、今度はまったく反対の批判の仕方を同じ人がするということはありますね。
 
河上 たぶんそのことによって学校の中がかなり混乱したと思うんです。どうしてかというと、教師というのはある種肉体労働者ですからね。頭で考えて行動するというよりも体を動かすことが仕事ですし、なにか動くときも勘で動かないとうまくいかないんですね。瞬間瞬間ですから。その勘そのものはある程度学校での教師の身のこなしとか、そういうものを蓄積するなかで、だんだん鍛えられていくことがありますからね。だからあまりいろいろなことについて対象化して考えるということはしないんですね。私なんかは変な教師の部類になるわけです。そうすると、表から例えば評論家というか、偉い人といっちゃ語弊あるのかな、ものを考える人が学校の教師とか学校の動きを見て意見を言いますよね。そうするとそれをまじめに考えようと動くのが普通の教師ですね、たぶん。自由が大事なんだといえば、やっぱり自分が毎日やってることでいえば、生徒を抑えつけることが学校では多いですしね、その抑えつけること自体、教師はあまり好きではないですからね。そうすると自由のほうがいいんだというと、そういうふうに行きたい気持ちが強いですから、そういうふうにやってみようと思う。単純といえば単純なんだけどね。
 ところが少しやってみたら今度は、自由じゃいじめが激しくなって管理しろと。管理という言葉は使いませんけどね、なんで?という話になりますよね。日本中のある種まじめな普通の教師たちが、そういう外側の意見に随分左右されたことがあると思うんですね。同時にそれで一方的にたたかれましたから、教師の言うことを生徒が聞かない状況がどんどん増えてきました。
 でもね、地域が崩れてあまりよく見えなくなって、たぶんそのあとは家庭そのものが崩れたんじゃないかと思う。その中で学校は随分もったんじゃないかと思ってるんです。
 
一人前になれぬ圧倒的多数
 
小浜 NHKの学級崩壊特集なんかでも、「なんだ、このくそばばあ」というふうに食ってかかる小学校高学年の生徒の話が出てきましたけれども、ああいうことはあるんでしょう。しかし、全部が崩壊ということではなく、むしろ拡散とか離散というイメージだと思うんですよ。つまり、一部の凶悪な子供がいて、それがくっきり輪郭を持ってクラスのなかの秩序を乱す者として存在するということではない。
 河上先生のおっしゃる普通の子供の問題だと思うんです。何か対抗心を持ってるだとか、不満を非常に抱えているとか、そういうこととちょっと違って、むしろ自分が学校に通うことの意味を確認できずに、なんとなくぼーっとしながら倦怠を抱えているというのが基盤にある。その部分というのは、はっきりしたニュースとか事件にならない。たぶんそういう集団としての子供のあり方みたいなものが、僕は一番問題だろうなと思います。
 
河上 そうですね。小浜さんがおっしゃったように、圧倒的多数の普通の子供たちそのものが大人になりきれないというか、どうやって生きていいかわからない。あるいは元気がない。そういう状態が私は決定的な問題だろうと思います。
 
小浜 たぶんそこが現状認識として一番大事なところでしよう。なかなか言葉に表現しにくいのだけれども。
 
河上 私が学級担任をした時の日記(『普通の子どもたちの崩壊』文芸春秋)をなんとか出した方がいいんじゃないかと思ったのは、私が体験した普通の子供たち、これがいわゆるいまの典型的な子供たちだということを、知らせることが必要だと考えたからです。学校は崩壊の方向に大きく動いている。そのことの本当の問題は、圧倒的多数の子供が一人前になれずに苦しんでいるということです。そこを出すためには、たぶんこういう形しかないんじゃないかという感じだったんですよね。
 しかし、こういう形で出すというのは教師はなかなか難しい。リアルタイムですから、前書きにも後書きにも書きましたけれども、書かれた子供たちにとってみれば、それはものすごく傷つけられることが出てくる。出すことを随分迷ったんですけどね。
 
小浜 その雰囲気を感覚的に伝えるということは、ぜひ現場の先生にやっていただきたいことの一つであるし、また河上先生ご自身お書きになってるように、外圧、学校たたきに対してなにか自己防衛するみたいなことではなくて、はっきり「私たちはこれだけしかできません」という限界を堂々というということも大事なことでしょう。その認識を学校の内外で共有化していかないとだめだと思うんですよ。
 
河上 しかし、ここ十数年の、外部の人々の学校たたきがそれを完全にだめにしたと思うんですよ。三十年前に教師になったころの話をすると、一升瓶さげて親が来るというのは、教師に酒飲ませるために来るんじゃなくて、親の立場で言いたいことを酒飲んで言って、そこでうまくすり合わせができるんです。たぶんそういうことだと思うんですよ。独身だから飯に呼んでくれるわけじゃなくて、親のほうから見た教師のこと、あるいは学校のことを教師とすり合わせるという、そういうことが自然に行われていたと思うんですね。
 それがだんだんなくなっていったことと同時に、この十数年、学校自体をたたいたから教師のほうが萎縮しちゃって、外の意見を素直に受け入れようとか、聞こうとか、そういうことができにくくなっている状況があって、それはすごいロスだったという感じがしますね。
 
小浜 なんでたたいたかというのを考えてみると、やはり旧来からの学校というのは、子供だけでなく親も含めて指導的な立場に立つ偉いものなんだという前提があって、その前提から照らして、いまの学校がこんなになっちゃうのはけしからんじゃないか、というスタンスだと思うんですよ。
 ただ現実はそうじゃなくて、学校の持っていた権威性みたいなものが内部から壊れていってたわけですね。その壊れていったということがうまく外に伝わらないで、壊れてるんだよということをいえば、お前の努力がなっとらんじゃないかといわれる。そういう悪循環をずっと繰り返していたと思うんです。ようやくここにきて、先生がこういう本を出された。これなんかも一つの布石だろうと思うんですけど、学校の外部もそういう悪循環だけじゃだめだということがわかってきた気がします。ですからこれから子供の状況というものに共通認識を持って、どうしていくかということを考えていかないといけない。
 
河上 そうですね。もう一ついえば、マスコミの人はせっかちですから「なんとかなりませんか」という。それは特効薬はないし、なんとかならないですよ。そんなに短時間になんとかなるような簡単なことなら、こんな本なんか出さないし、大騒ぎするようなことじゃないんだからと私はいうんです。結局、いま小浜さんおっしやったように、まだ本当にスタートでね、やっと何か問題らしきものが、こういうところにあるかもしれないな、ということがいくらか外に出始めた。
 ここでもし教師がつらい状況にいて、なかなかうまくいかないな、ということがあるとすれば、真っ先に教師がやるべきことは、学校での具体的な事実を外へ向かってどんどん出すこと。情報を出すことによって、昔と同じようにおやじさんが酒飲んで学校へ来て、「おい、一杯どうだ」というような、そういうすり合わせがあちこちで起こってこないといけない。
 
小浜 起こる可能性あるんでしょうかね。すごい個人主義になってるから。家庭そのものが壊れているというより、個々の家庭はものすごいガードが固くて、それぞれが異なるエゴを持って学校に押し掛けてきませんか。
 
河上 もしそういうことが無理だということであれば、学校そのものがなくなるというふうに考えざるをえないだろうと私は思うんですがね。
 
小浜 いや、なんとかなくなさないほうが僕もいいと思ってますから。
 
河上 私もそう思うんですよ。三十年教師やっていますが、学校の役割はかなり大きかったと思うんですね。これをなくしたら日本の社会そのもののたぶん根底部分がゆらぐだろうと思う。
 
バランスを失った自由と強制
 
小浜 学校はなくしてはいけないけれども、学校は背負いすぎてきて、先生がこれだけ疲れているんだから、その背負いすぎていた部分を、もうちょっとほかの機関なり親なりが背負うようにしたらいい。それはただ家庭のしつけとか精神性の部分ばかりを強調してもだめですから、学校教育と外側の領域との関係のあり方を少し変えていくみたいな発想で制度改革をしないとだめじゃないかと思うんですね。
 
河上 そういうことを整理して考えてくれれば、私なんかは、ああいいなと思うんです。しかし、どうするかは現場の教師が決めることじゃないですからね。どう転んだってそれは学校の教師を続けるかぎりは、その役割を果たしていくことになると思うんですよ。どうなったとしてもね。ただ整理して、学校の役割はここまでで、ここから先は違うので、ここまでについては例えば基礎的な問題なんだから義務教育として残して、その場合には少しいやなことがあっても我慢するんだよというふうな、もう一回そういうサインを出すかどうか。
 そのあたりのことも全部ひっくるめて問題を整理しないといけない。みなさん勝手な立場で勝手なことを言う。私を管理中心のガリガリだというふうに誤解してる人もいらっしゃるようだけれども、例えば学校では生徒を抑えなければいけない分野が当然あるわけですね。生徒がいやでも強制的にやらせなくちゃいけない。しかしそれと同時に、生徒がそういうふうにして、いくらか身につけたことを自由に展開する場面がいっぱいないとだめなんですよ。ですから自由と強制というか、管理と自治というか、そういうものが学校のなかにうまくバランスとれてなくちゃいけないし、長期的にいえば低学年から中学三年までいけば、上級生になるにしたがって自由とか自治の分野を拡大するというのがたぶん理想的だと思うんですよね。
 
小浜 そうですね。僕もそういうことを言ってきたと思うんですけどね。
 
河上 そうですね。それがいまごっちゃになってましてね、どちらかといえば強制は一切だめだというほうがうんと強いですからね。そこのところをもうちょっとバランスよく考えるようになってもらえるとうんと楽なんですけどね。
 
小浜 強制と自由のバランスと書いていらっしゃるのは本当にその通りだと思います。その考えの上に立って具体的なアイデアを出していくべきですね。これは本当にそうだな。管理か自由かの空想論議をいくらやっても意味がない。ただ教育論議としては、相変わらず子供を自由にさせるのがいいというのが主流を占めていますから、それがだんだん学年的にも下に下がってきて、例えばいま保育園や幼稚園なんかでもなんでも放任するのがいいんだ式の考え方が圧倒的で、保育園で、「さあ、これからみなさん一緒に公園に行きましょう」とか、「これからこういうお遊びをしましょう」というのが成り立たなくなってるところも出始めているらしい。
 それは園の方針でもあるわけですが、僕は間違っていると思うけれども、自由に個性を育てるのが大事であるからといって、三、四歳ぐらいの年齢から勝手にさせているんですね。ですから集団的な遊びが成り立たないので、そういう子たちが今度小学校へ入って、一応統制に従わなきゃいけないのに、なんで従わなきゃいけないのというのが体で理解できない。ますます低学年が大変になっちゃう。
 
河上 一年生の場合には最近急速に広がってるらしいけれど、形ができないんですね。崩壊じゃなくて、学級という一つ小さな社会が成り立たないというから、これはとっても大変ですよね。例えば担任を二人にしたらなんとかなるとか、そういう問題じゃないんですね。それは二人にすればいくらかなんとかなる部分は増えるかもしれないけど、しかし、小学校一年生から集団とか社会というものを一つ一つ教え込まなくちゃいけないとなると、これはいままでの学校とは全然違った様相になりますよね。
 
小浜 ですから、河上先生のおっしゃる自由と強制のバランスがうまく機能するためのシステムとは何であるかという議論をしなければいけないでしょうし、それから、自由がいいんだというような考え方は間違ってるという言い方でただ言っててもだめなような感じもしますね。
 
河上 そのとおりです。
 
小浜 自由は必要だし、社会の変化があって個人主義化は歯止めなく進んでいくし、それを逆戻りしようとさせてもだめだという部分もありますから、一人ひとりが個として生きていかざるをえない部分が増えるこれからの社会というのは、あまり古い共同体精神のようなものを植え付けようとしてもどうしても無理な部分があると思うんですね。個の自己決定とそれに伴う自己責任の意識をいかにして育てるか、そしていかに本当の意味で自立させるかということを考えなければいけない社会ですからね。
 
河上 さっきのとからめていうと、自由はかなり大事なものだと考えるとすると、小さいときから自由に生きるための教育が必要なんでしょうね。
 
小浜 ええ。ですからそれはただ放任ということとは全然違うので、自由を育てるためには教育する側に確固たる理念みたいなものが必要なんですよ。不羈独立の精神を育てるためにはね。
 
河上 これは極めて大変ですね。
 
小浜 大変ですね。大人が相当ガチッとして取り組まないとだめで、日本人は相当はき違えてる部分があって、自由な精神を育てたり、自由な教育をやるということと、いまここにいる子供を自由放任させることとごっちゃにしているみたいなところがある。自由精神を育てることはほんとに大変なことですよ。
 
河上 小浜さんとそこのところは、いくらかずれると思うんだけれど、現場で生徒を見て、自分を重ねて考えてみたりすると、自由というものを最大の価値として生きるのは極めて大変なことだなという実感がありますね。もしそういうことを教師の立場でやろうとすると、例えば小さいときから身の回りのことは自分でできなくちゃいけないですね。人に世話かけちゃいけないと思うんですね。それから自分の自由を最大限尊重してもらいたいとすれば、他人とつきあうときに他人を大事にする、他人の自由を大事にするようなつきあい方が必要ですよね。
 もう一つ自分が自由に生きるわけだから、そのときに他人に対してまずいことした、傷つけた、暴力を含めてですよ、そういうことも起こりうるわけだから、そういうことをしたときに、自分で責任をとる覚悟といいましょうか、精神的な強さも必要ですよね。例えばそんなことで、そういう人間を育てるというのは、少なくとも私はいままで日本の中学校で三十数年やってますけど、そういう教育はやってないんですよね。それは違った形の新しい教育の仕方をしなくちゃいけないだろう。これはわかりませんけど、ひょっとするとアメリカ的な何かなのでしょうか、よくわかりません。
 
小浜 さあ、ただアメリカの真似をすればいいというのではないことはたしかですが、私にもそのへんのイメージがつかみにくいですね。
 
河上 きっと、いままでの日本的な教育とか、学校のあり方とはまったく別個のものにしなくちゃいけないだろうという気がします。もう一つは、根本的な問題として、自由を大事にして生きるのはつらいことだという感じがありますから、ひょっとすると、自由は大事なものとしていいけど、それを極端に大事だというのではなくて、もうちょっとお互いにもたれあいながらみたいな感じですかね、いい加減な部分、それから責任を自分で完全にとるのじゃなくて、そこは人に任せて逃げちゃおうかみたいな、そういういい加減さといいましょうか・・・。ですから自由を大事にしながら、なおかつ人と一緒に生きるみたいな、そこはよくわかりませんけど、なんとかそのへんをうまくこう調整をとりながら生きていくのが一番楽かなあという、そんな感じですね。
 自由そのものを、さっき小浜さんおっしゃったように、そんなものはどうでもいいので、という言い方はとてもできないし、私なんかそういうのはとてもいやですからね。やっぱり自分の自由をものすごく大事にしたいということはあるんだけれども、しかし、なおかつなんとなくもたれかかって生きていくというのは基本にあっていいなあという。そういうイメージをもう少しみなさんがはっきり主張して、すり合わせをするということが根本的な問題として必要なんでしょう。
 
小浜 そうですね。そのイメージをきちんと出すことが知識人なり思想家なりの役割だと思う。
 
河上 そのことがはっきりしてこないと、学校をこうしろというのは出てこないと思うんですよ。
 
小浜 日本のこれまでのいい部分を生かしつつ、しかし新しい事態に直面しているのだから、生かしながらどのようにこれからの社会のイメージをつくるか、デザインを描くかというのは、たぶん言論人や知識人の非常に大きな役割だと思うんだけど、なかなか難しい。
 
河上 これはないものねだりなのかもしれないという気もしないでもないけれど、でも現場の教師としては、そういうことをだれかがやってくれないとつらい。そういうのがいくらかはっきりしてくれば、なんだ、おれたち学校の役割はそういう社会に送り出す子供をつくればいいんだなと、そういうふうに教育すればいいんだなということが見えてくれば、これは極めて気が楽ですよ。いまいろんな要求がいっぱい錯綜して入ってきますからね。
 
学校の役割を限定せよ
 
河上 最近は教師にいい加減な人間が少なくなりました。
 
小浜 面白い人間も少なくなった。いい加減な先生っていましたよね。河上先生も書いていらっしゃるけれども、父性が大事だというお話。普通イメージされる父性というのは、厳父というイメージできっちりものごとをやって、事のよしあしを教えていくという感じだけど、実際の父性のいいところって必ずしもそういうところじゃないですよね。むしろ男のいい加減さみたいな、遊び心とか。つまり、これは女性差別的な言い方になっちゃうかもしれないけれど、女の人ってまじめな人が多くて、どうしてもマニュアルどおりきちっとやろうとする。
 一方にそういうのが軸としてあって、いやいや現実はそんなもんじゃねえやみたいな感じで崩すという人間がいて、そのバランスでうまくとれないと子供は窒息してしまう。家族だってそうだろうし、学校だってとくに小学校低学年レベルなんか、そういうダイナミズムがあってうまく学校生活が動いていくと思うんですよ。いまそれがなさすぎる感じがするんですよ。
 
河上 いい加減な教師が一定の数いたほうが、学校は居心地いいですよ。それがだんだん極めてまじめな教師、まじめな人間ばっかり、堅い人間ばっかりが集まってきた。いまうちの学校は非常に母性的ですよ。ほとんどの教師が母性的ね。男も例外なく母性的ですね。だからいろんな現象に真正面から対応しようとする。これは対応される生徒はつらいですよ。
 
小浜 そうでしょう。
 
河上 それから、ほとんどの教師が「金八先生」的なんですね。ひどく思い上がりもあるわけ。自分の力でなんとかこの子をよくしたいんだと思う。私は学校の役割を限定してクールにしないとだめだと思う。「できることとできないことをはっきりさせ、できることだけやればいいんだよ」という形になれば、極めて私は問題整理されると思うんです。
 
小浜 僕もそのほうがいいと思うんです。
 
河上 ところがこれはだめなんですよ。教師が。わかるでしょう。そういうふうにクールに私がいうと、みんないやがるわけ。
 
小浜 そうですか。
 
河上 だからもっと自分がやりたい。自分の力があると思いたい。自分が偉いと思いたい。それが極めて強いんじゃないか。私が教師になったころも、そういう部分がなきにしもあらずだったけれど、もうちょっと教師が相対化されていたと思うんですよ。ある種ばかにされてた。親たちは、「まあ、先生なんてこんなもんよ」というふうに思っていた部分があるし、そういう社会の相対化されるような目が学校の中に入っていたと思うんですよ。だから、自分が生徒をなんとかできるんだなんて思い上がるような要素は少なかったと思う。
 
小浜 そんなに若い先生に万能感みたいなものがあるんですか。
 
河上 ある種のエリートです。
 「金八先生」のようないい教師になりたいという、極めて日本的な教師像が根強いですね。しかし、「金八先生」は、意地悪くいえば、支配したいわけだよね、自分の好きなようにしたいわけですよ。そういうとみもふたもなくなっちゃうけれど、自分の勢力下、影響下に子供を置きたい。だからそこから向こう側へ立たせて、「あんた一人で生きていくんだよ」というふうな、さっき父性的といった、そういうものはほとんどないんですよ。先生に「すいませんでした」といえば、「ああ、いい子だね。君、本当によくなったよ」という形で抱え込む。それは若い人に極めて強いですね。
 
小浜 そういう全部抱え込もうという権力意識というか、悪くいえば支配しようという意識の人たちが来たことはもうしようがないわけだから、その人たちの守備領域といいますか、フォローできる領域を限定しちゃえばいいわけ。限定するのはシステムを変えることですよね。
 
河上 そういうことです。ですからそれを社会的に少し論議したうえできちっとしてほしいと。「ここから先はあんたが入る領域じゃないよ」と。ただ、これは小浜さんも前におっしゃってましたけれど、日本の場合には牧師的な心の領域まで抱え込んできたわけですから。そういうのが日本の教師のイメージとしてあるわけだから、いたしかたない部分があるんですね。「もっとクールに」というと、みんないやがるんですよ。親たちもいやがるのね。先生というのはそういうものじゃなくて、悪いことしたら納得させて改心させてくれるものだ。牧師みたいな仕事を親も要求するわけで。
 
小浜 日本は宗教がないですから、全部学校で、子供の人格のすべての部分の教育を先生がする。
 
河上 だから先は長いと考えるべきでしょうね。
 
小浜 先は長いでしょうね。学校の教師の役割として何に限定すべきかというと、この本では基礎学力と、自立心と、公共心の三つだというふうにまとめられていましたね。まったく賛成なんですけれど、ただ、そういってるだけでは抽象的ですから、それを実際の目に見える図の形で、制度をこうこうこういうふうにするんだよという形で示さなければいけないな、というのがこれからの課題でしょうね。そういうことも全部わかってる人がグランドデザインみたいなものをきちんと提案すればいいんだけど、なかなかいないんですね。
 
河上 いまのところ小浜さんしかいないでしょう。本当に一貫性を持って教育と学校を考えてる人はほとんどいないんです。だけど、社会全体をどうするかとか、あるいは経済どうするか、政治どうするかが前提ですよ。
 
小浜 そういうことをトータルにちゃんと見ている、ものすごい頭のいい人と見通しの利く人がやらないとだめなんでしょうね。
 
河上 それを含めて学校も考えてもらわないとね。学校だけ論議したって意味がないですね。
 
小浜 ええ。逆にまたそういう人材を育てるための教育はどうあるべきか、本当にリーダーシップがあって視野の広い人間を育てるための教育はどうあるべきか。なんか話が循環してしまいますね(笑)。
 
河上 ええ。
◇河上亮一(かわかみりょういち)
1943年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
埼玉県川越市立高階中学校教諭、同城南中学校教諭、同初雁中学校教諭、2004年退職。教育改革国民会議委員を歴任。
◇小浜 逸郎(こはま いつお)
1947年生まれ。
横浜国立大学工学部卒業。
現在、執筆評論活動を展開。


 
 
 
 
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