1998/11/19 毎日新聞朝刊
新学習指導要領案公表 学力格差拡大の恐れ=苅谷剛彦・東京大学助教授
今では画一教育と批判されるようになったが、従来の日本の教育は、他の先進国がうらやむほど、平均レベルの高い、散らばりの小さい基礎学力を培ってきた。今度の改訂は、それを犠牲にしても、「ゆとり」を増やそうとしている。しかし、そこに死角はないのか。
まず「子どもにゆとりを」という前提を疑う必要がある。いくつかの調査によれば、塾などでの学習を含めても、中学生、高校生の学校外での学習時間は、過去20年間で減る傾向にある。しかも、依然としてよく勉強する生徒がいる一方で、ほとんど勉強しない者が増えている。学校外での学習時間の差が広がっているのだ。全体のゆとりを増やす今度の改訂は、すでにあまり勉強しなくなった子どもにとって救いとなるのか、それとも勉強嫌いのさらなる免罪符となるのか。
ここから見えてくるのは、教育における格差拡大の問題である。
今度の指導要領改訂がうたう「自ら学び自ら考える力の育成」は、実践場面では、従来の知識伝達型の教育ほど簡単ではない。教師の力量の問われる難問である。しかも、この困難な課題を全体の授業時間数を減らす中で行おうというのだ。知識伝達中心の画一教育は、学校間、教師間の違いを極力おさえてきた。それに対し、どの教師や学校にも同じ力量があるという理想論を信じ続けないかぎり、今度の改訂が、学校間・教師間の教育力の差を拡大することは避けられまい。それも「学校の個性化」と文部省は呼ぶのだろうか。
公立学校のさらなる地位の低下も進むだろう。今回の改訂は、一見、勉強の不得意な子どもに救いの手を差し伸べているように見えるが、得意な子はどうなるのか。公立学校での学習にあきたりない子どもは、これまで以上に塾や私立学校に頼るようになるだろう。
その結果、親の意識や所得などによる教育の階層差が、これまで以上に拡大する可能性がある。
もう一つの懸念は、学力低下である。数学の学力を長年国際比較してきた研究によれば、日本の中学生の学力は、今ではシンガポールや韓国を下回る。また、思考力を試す文章題では、過去の日本の生徒と比べても低下傾向にある。しかも、文章題の正答率の低下は、「考える力」の育成を目指した現行の指導要領で教育を受けた生徒に起きている。これらの事実をふまえると、現行の指導要領とほぼ同じ路線に立ち、さらに授業時間の削減を図る今回の改訂が、基礎学力の低下をもたらさずに、「考える力」を伸ばす保証はどこにもない。
高校までに養成される学力が低下すれば、基礎学力の形成という課題が大学に先送りされる。改革が進んでいるとはいえ、これまで教育力が乏しいといわれてきた日本の大学にとって、その荷は重い。
それでも、5日制導入は既定の事実として揺るぎない。以上の潜在する問題群に見合うだけの価値あるゆとりを生み出せるのか。「はじめに5日制ありき」の教育改革の全体が問われている。
◇苅谷 剛彦(かりや たけひこ)
1955年生まれ。
東京大学教育学部卒業。米ノースウェスタン大学大学院修了。
東京大学教育学部助教授を経て現在、東京大学大学院教育学研究科教授。
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