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1994/04/14 産経新聞朝刊
【正論】慶大名誉教授・加藤寛 羽ばたけミネルヴァの梟たち
 
◆大学改革に必要な理念
 冒頭から私事になって恐縮だが、一九九四年三月二十四日、私の所属する湘南藤沢キャンパス(略してSFC)の第一期卒業生を送るテイク・オフ・ラリーが行われた。このパーティのハイライトは、日本の大学としては最大の二五〇インチのハイビジョンを学生が駆使したことだった。SFCは、六百台のワークステーションがあり、日本の拠点として全国の約八割の電子メールを世界百五十六カ国に発信し受信している。学生の中には外国の研究者と自由に交信し、ついに世界的難問を見事に解決してしまい、マスコミにも報道された者、各種のコンテストに挑戦して受賞した者、あるいはボランタリー活動の一つとしてリサイクルや、介護に参加する者、農作業をして野菜作りを体験する者などなど、表彰したい学生は枚挙にいとまがなかった。
 四年前にSFCが創設された時、誰がこんなに成長する学生を予期できただろうか。彼らの多くが、「勉強は辛かったが楽しかった」と口にした時、「レジャーランドといわれていた大学」の改革が成功したと思うのは、私の思い上がりであろうか。
 「大学は楽しくなければならない。しかし楽しいだけでは大学ではない」と私は思い続けていた。だから大学改革といわれるもののなかに、学生に迎合するかのようなことを改革と称することに疑問を感じていた。一芸一能入試で大学の教育に随いてこられるのか。卒業資格を甘くすることが大学なのか。何のために大学は設立されるのかと。
 福沢先生いわく、「政を美にせんとするには、まず人民の風俗を美にせざるべからず。風俗を美にせんとするには、人の智識聞見を博し、心を脩め身を慎むの義を知らしめざるべからず。ゆえに今、慶應義塾を開くは、至急のまた急なるものなり。」
 換言すれば、大学改革には理念が要る。若者の数が減少しているから、若者の好みそうな名称をつけてひきつけるだけでは改革にならない。改革には、何のために改革するかを明示し、次にそれにふさわしい教育方法の環境を整備し、そこから新しい学問の創造へと進めなければならない。私たち設立委員会のグループはこうして開設五年前から検討に入った。
 
◆未来からの留学生対象
 現在の大学教育の目的は何か。それは「未来からの留学生」を私たちは対象としているということである。従来の大学の限界は、工業化にふさわしい人材を育成することにあった。工業化とは、画一的に大量に物量を生産することを効率と考えるから、偏差値尊重にみられるようにただ一点からのみその成果が問われることになる。これは追いつき追い越せの人材育成には効率的だが、個性を伸ばし、勉学に意欲をもたせることも、ゆとりと余裕をもつ人材を育てることもできない。
 未来は、何が起こるか判らない途である。そうした中で、いかなる難問にくじけることもなく、未来に希望をもって進める人材こそ必要なのである。学生は「未来」に住む人間であり、それが今仮に「現在」に留学してきているのだと考えたら、過去にとらわれた教育を強制してはならないことが明かだろう。過去の学問の蓄積を学生に授けるのではなく学生に自ら問題を発見させ、その分析をおこない、その解決をデザインさせることが私たちの教育である。そのための環境作りが必要なのだ。作られた校舎はギリシャ神殿をイメージさせる。文武智にすぐれたデウスの娘アテネ(ミネルヴァ)はアテネの守護神となり、ミネルヴァに棲(す)む鳧(ふくろう)を愛した。智を失った暗闇の中で、目を開かせ指針を与える人材となって欲しいと念願した。したがって校内の建物の名称はギリシャ文字となっている。学問の発祥はギリシャにある。未来の学問の発祥の地はSFCであると私たちは確信している。こうして新しい学問の創造を目指した。
 
◆握りつぶされた自由化
 「総合政策学部」と「環境情報学部」は十八世紀以来細分化し、呪縛(じゆばく)化し実学でなくなった学問の改革を主張したものである。かつて、中曽根内閣が臨時教育改革審議会を設置して学校教育の改革をめざした時、大学の理念と学問の改革を提起できないままに終わってしまった。私たちは「学校教育の自由化」を強く主張したが、とらわれた教育者たちが結局握りつぶしてしまった。朝日新聞論壇に畏友、野田一夫多摩大学長が、「設置の原則自由化による競争原理の導入」を提言している。まさに正論である。カリキュラム編成の大学側の裁量権は多少広がったが、施設・備品などハード面の規制はいぜん昔のままだし、設置審の教員審査なども不透明である。
 こんな状態で教育改革はできるのか。近頃、理系の学生が少ないと嘆き、懇談会など作ったようだが無意味である。未来の学問には文系も理系もない。ともにコンピューターを学び、社会を学ぶ。それすらも区別しようとする教育に未来はない。
 今私は四十五年間の大学教師に別れを告げることになるが、ミネルヴァの鳥たちよ、未来に羽ばたいてこの世の暗闇に光を与えてくれ。(かとう・かん)
◇加藤 寛(かとう かん)
1926年生まれ。
慶応義塾大学経済学部卒業。
慶応大学経済学部助教授、同教授、総合政策学部学部長を経て現在、千葉商科大学学長。


 
 
 
 
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