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1990/08/29 読売新聞朝刊
[論点]大学の自由化に伴う危険性への配慮を 天野郁夫(寄稿)
 
 先ごろ、大学審議会から、大学改革に関する審議結果が報告された。ここ数年進められてきた審議の内容は大学のさまざまな問題にふれているが、中心的なねらいは大学設置基準の「大綱化」をはじめ、大学教育のいっそうの弾力化、自由化にあるとみてよい。
 わが国の大学の組織形態や教育課程は、これまで、文部省の定める基準によってきびしく規制されてきたが、大学関係者の間には、この基準が大学教育の画一化を招き、時代や社会の新しい要請に応じた改革や革新をはばんでいるとする認識と、それに対する根強い批判があった。今回の報告は、そうした批判をふまえて、設置基準を緩和し「大綱化」して、それぞれの大学の自由な選択・決定の幅を広げる方向をめざすものであり、画期的な意味をもっている。報告の内容通りの改革が進められれば、大学は主体的に改善や革新を進める自由を大幅に認められることになる。文部省の規制緩和を望んできた大学関係者にとって、願い通りの改革構想ということになるだろう。
 この積極的な「自由化」の構想は、しかし、わが国の大学の未来にとって、手放しで喜ぶべきものなのだろうか。いうまでもないことだが自由にはリスクと責任が伴う。また自由の行使が大学教育の活性化や革新につながるためには、みたされていなければならない前提条件がある。大学審議会の報告を読んで感じるのは、そうした点への配慮や検討なしに、自由化ばかりが先行することへの不安であり、疑念である。
 たとえば基準をゆるめ大学の自由裁量の余地を広げるのはいいとして、個々の大学の選択・決定の是非をだれが判断するのだろうか。それを文部省の「窓口規制」にゆだねることは、望ましくない。基準が大綱化されれば、それだけ「窓口」での「指導」に恣意(しい)性が入ってくる危険性も大きくなるからである。としたらだれが、どのような機関が、ことの是非に判断を下すのか。
 報告はどうやら、大学の自己評価や大学基準協会の役割に期待しているようである。しかし前者については、伝統も前例もない。大学が自分にとって不利になるような評価結果を、進んで公表するという保証もない。後者は四十年余の歴史をもつが、大学の大学関係者による相互評価の機関として、ほとんど機能してこなかった。
 大学外の社会にも、たとえば入学者の偏差値序列といった、興味本位の評価はあっても、大学の質そのものを公平にとらえ問題にするような評価のシステムは存在しない。また学生が、大学での教育というサービスの質を重視して大学を選択する「賢明さ」をもっているとも、いいがたい。そうした状況のもとでの自由化によって、大学の質は、どこまで保証され、向上するのだろうか。
 さらに重要なのは、資金をはじめとする資源の問題である。資源がゆたかで、流動的で、提供者が多元的で、配分が競争的になされるという前提がなければ、自由化は大学の活性化や教育研究水準の上昇につながらない。国家財政のみに頼る少数の国立大学と、授業料収入以外に安定した資金源のない多数の私学が併存する状況のもとでの自由化によって、多様化は進むかも知れないが、同時に大学間の格差構造のいっそうの強化と、大学教育の質の総体的な低下をもたらしかねない。
 自由化はいい。しかし、その認められた自由の積極的で賢明な行使を可能にするインフラストラクチャー不在のままの自由化のはらむ危険性について、もっと慎重な検討と、十分な配慮が必要だと思うのだが、どうだろうか。(教育社会学)
◇天野郁夫(あまの いくお)
1936年生まれ。
一橋大学経済学部卒業。東京大学大学院終了。
東京大学助教授、教授、同教育学部長を経て、現在、国立大学財務・経営センター教授。

 
 
 
 
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