2001/09/12 産経新聞朝刊
【第二部 学力低下は誰のせい】いま学校は(2)「指導」よりも「支援」
◆知識教育の軽視を正当化
先生の役割は子供を「指導」することではなく「支援」すること。
こんな教育方針に基づいて昨年十一月、群馬県内の公立小学校で公開された授業は、見学した小関煕純・群馬大教育学部教授(六五)が目を覆うばかりの内容だった。
担任は三十歳前後の男性教諭。算数の授業で、「5−2=3」の引き算を教えていた。
計算を具体的なイメージで理解させるため、通常、教師はこんな問いかけをする。
「バスに五人の乗客がいて、バス停で二人降りた。車内に残された乗客は何人か」
ところが、男性教諭は「どのような場面が考えられますか」と始めた。場面設定から児童に任せることが自主的、自発的な学習で、教師は「支援」役・・・というわけだ。
児童の一人が「五人いる会議室に強盗が入ってきて、二人をピストルで殺した」と答えた。さらに別の児童が「五匹いるアリのうち二匹が踏み殺された」と発言すると、せきを切ったように児童が手をあげ始めた。
結局、場面設定についてのやりとりは三十分近くに及び、四十五分授業の大半を占めた。
授業のあとのアンケートで、児童の感想は「楽しかった」という回答が多く、男性教諭も満足そうだった。
「子供たちの表情も明るくて、とてもよかった」
「あれほど授業が盛りあがるとは」
授業後に開かれた反省会では、同僚教員からも称賛の声が上がった。この学校は「支援」重視の方針で知られ、教員たちの表情も自信に満ちていた。
しかし、小関教授の発言は厳しかった。
「私なら、場面設定は一分程度で済ませる」
戸惑う教員たちに、小関教授は続けた。
「確かに子供の関心を呼び起こすのは大切なこと。しかし関心が授業と全然関係ない方向に進んだとき、それを打ち切るのも教師の責任です」
「支援」という考えが広まったのは、平成元年度に旧文部省が発表した学習指導要領で「自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」と明記したのが始まりとされる。
従来は「知識偏重の学力が大切にされていた」として、「新(しい)学力観」とも呼ばれた。
五年度に教諭向けに作成された指導資料には、「支援」という言葉が頻繁に登場した。
それ以降、「『指導』よりも『支援』が大切」という考え方が現場を席けんした。事前に授業内容などをまとめておく「指導案」を「支援案」と書いたり、「教材」を「学習材」と呼び変えたりする教員が増えた。
「授業」という名称に対しても、「教師による指導、押し付けを意味する」と異を唱える教員もいる。
こうした風潮に、小関教授は「子供が自分でできるまでひたすら待つ、というのは、効率も悪く、あしき傾向」と批判的だ。
東京都内の中学校で二十四年間、教えた経験がある小関教授は、教育を「教」と「育」に分けて考えている。「教」は知識を「詰めこむ」こと、「育」は子供の能力を引き出すことだ。
「『教』と『育』のバランスが重要。戦前は『教』ばかりが重視され、戦後は『育』ばかり強調された。どちらも極端で異常なんです」
いまは年間二十件以上、全国の教育現場を視察している。小関教授の目には、特に最近の傾向が異常に映る。
知識を教えることに「罪」の意識を感じる教員、宿題を出すことをためらう教員・・・。
「こんな教員は以前からいたが、『支援』という言葉に置きかえて正当化されている。しかしそれは、現場を混乱させるだけの言葉遊びでしかない」(教育問題取材班)
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