臨教審(臨時教育審議会)の発足以降、十五年間の教育改革の歩みをたどった平成十一年度教育白書が発表された。全体として、文部省の自画自賛の傾向が強く、反省があまり見られないのはどうしたことか。
「戦後教育の総決算」を目指し、当時の中曽根康弘首相の直属機関である臨教審が発足したのは、昭和五十九年八月だ。メンバーは教育界、財界などから幅広く選ばれ、本音の議論が展開された。三年間に四回の答申を出し、「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」などの指針を示した。
しかし、今回の教育白書は、その後の教育改革をただ羅列した感が強い。臨教審が発足した十五年前と現在の教育の違いを制度や数字で比較し、資料的価値はあるが、「臨教審答申がどの程度、生かされたか」「それは、すべて妥当なものだったか」といった検証作業がほとんど行われていない。
この比較表のあと、「教育改革Q&A」のコーナーが設けられている。文部省が児童生徒や保護者の質問に分かりやすく答えるという形式で、今回の白書に初めて登場した。しかし、建前だけの抽象的な答えが多い。
例えば、最も深刻な「学力低下」の問題について、文部省は大学生の質問にこう答えている。「試験の時だけ詰め込むような教育をやめていきましょう。自分から『学びたい』と思う、ゆとりある教育を進めていかなければいけません」。そして、大学生に「よく分かりました。文部省の言うような学校になれば、自分から学びたいと思えるようになるのではないでしょうか」と言わせている。
ことの本質を避けた問答である。ゆとりをはき違えた教育だったから、学力低下が起こったのではないか。発達途上の子供たちには、好き嫌いにかかわらず、基礎的な知識を覚え込まなければならない時期もある。そのための試験である。小学校の分数計算もできない大学生に、どうやって「自ら学ぶ意欲」を起こさせようというのか。
また、「子供の塾通い」について、「小学校段階から行き過ぎた塾通いとならないよう、配慮が求められます」としているが、公教育が基礎・基本を十分に教えていない分を塾が補完しているという視点が欠落している。
米国や英国の学校教育は、読み・書き・計算を中心とした「基礎学力の底上げ」を図っている。日本がいつまでも「ゆとり偏重」の教育をやっていると、世界の科学技術の進歩からも取り残されてしまうだろう。二十一世紀の教育改革は、文部省だけにまかせてはおけない。
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