「学校不信」「学校批判」のあらしの中で教師の苦悩と模索が続く。ここから何が生み出されるのだろうか。教師の意識改革や学校の再生、家庭、地域との「学びの共同体」の実現は可能なのだろうか。このような問いを抱きながら日教組の教育研究全国集会の討論に耳を傾けた。結論を先にいえば、その手ごたえは感じられた。
集会には、第一回以来四十五年ぶりに文相のメッセージが寄せられ、橋本首相の祝辞も届いた。分科会では子供や親たちが姿を見せ、活発に発言した。シンポジウムには在日外国人をはじめ、PTA代表や企業人もパネリストとして招かれた。文部省の課長も出席した。開かれた日教組、文部省との和解を印象づけるものとなった。
こうした形式の教研集会は、学校の閉鎖性や家庭、地域の学校依存体質を打破するだけでなく、教育をめぐる国民的合意を形成するためにも有効だ。教育の創造にもつながるだろう。
だが、今回は討論の中身を見る限り、忌たんのない意見交換とはいかず、論議は深まらなかった。子供や親からは率直な意見表明があったものの、教師側の考えが明確に伝わってこなかったのは残念である。聞き役に回った面を割り引いても、教師の消極姿勢が気になった。「いじめ・不登校問題」特別分科会では、“子供たちの反乱”に沈黙と自省自戒の弁が目立った。教師側に過失や力量不足があれば、これを素直に認めるのは当たり前のことだが、教師としていうべきことまで控えるのは子供のためにならない。
「子供と同じ目線で」「子供に寄り添いながら」といった言葉をよく耳にした。一方的で画一な授業や指導への反省に立ち、子供一人ひとりの個性を大切にする教育を志向する姿勢の表れといえる。だが、ややもすると子供の言い分は何でも認めることと混同されがちだ。実際に、そう思わせる発言があった。子供を中心に据えた教育は子供迎合主義の教育ではない。
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