2002/03/06 読売新聞朝刊
[どうなる学力](上)不安抱え「ゆとり」始動(連載)
四月から完全学校週五日制が始まり、教える内容を大幅に削減した小、中学校の新しい学習指導要領も実施される。「ゆとり」の中で「生きる力」をつけるのがねらいだが、一方で「学力低下」を不安視する声も強まっている。公教育の現場で、いま何が起きているのか。
「授業時間が減る、土曜日も休みになる。本当に学力は大丈夫でしょうか」
文部科学省が先月、千葉市内で開いた「教育改革フォーラム」。岸田文雄副大臣らとともにパネリストを務めた佐藤裕子・千葉県PTA連絡協議会副会長が、次々に疑問を投げかけた。
今月中旬まで全国で計六回行われるフォーラムの目的は、五日制と新要領実施の趣旨を同省幹部が直接市民に説明し、理解を得ることにある。関心は高く、この日は五百人の予定に七百人もの保護者や教育関係者が詰めかけ、会場には追加の折り畳みイスが並んだ。
だが、五日制も新要領実施も、三年以上前から決まっていたことだ。土壇場で幹部らの全国行脚となったのは、急速に膨らむ「学力低下」の懸念の声を、これ以上、放置できなくなったからにほかならない。秋田県教委が先月、約三万人の保護者に行ったアンケートでも、六割が「基礎学力の低下」を心配していた。
新要領は、一九八〇年代初頭に始まった「ゆとり教育路線」の集大成とも言える。九六年の旧中央教育審議会答申が「子どもたちは勉強に追われ、『ゆとり』のない忙しい生活を送っている」と指摘したのを受け、具体化された。
新要領では、小学校の場合、授業時間数が現行より7%減る。さらに体験活動を重視した「総合的な学習の時間」を創設したため、教科別では国語、算数が各14%、理科は17%も減る。
そのねらいは、学ぶ内容を「厳選」することで基礎基本の学力を確実に身に着けさせ、総合的学習を通じて自ら考え学ぶ「生きる力」を育てることにある。
だが、同省の最新調査でも、家庭での学習時間は大幅に減っている。「日に三時間以上テレビやビデオを見る」中学二年生は、平日で四割、休日は七割近くに上る。中教審が指摘した「忙しい生活」はいつの間にか消えうせ、同省が定義する「学力」の一要素である「学ぶ意欲」も、低落傾向にあると言える。
それでも、春以降、学ぶ時間、内容は減らされる。そうしなければ、これまでの施策を同省自らが否定することになるからだ。“ねじれ”のスタート。子どもたちの「学力」は大丈夫か。
◆「底辺」都立高、憂うつ 「ひらがな」も危うい
「しんじく(新宿)」「しくだい(宿題)」「わかた(わかった)」
最初の授業で新一年生に作文を書いてもらうたび、ある都立高校の女性国語教師(41)は、「今年もだ」と憂うつになる。「底辺校」と呼ばれる高校に赴任して三年。毎年二百人近い新入生のうち、半数近くはきちんとした文章が書けない。かなりの生徒は、ひらがなさえ危うい。
小学校で習う漢字が書けない。作文は数行がやっとで、単語だけのこともある。ただ、そんな生徒も、文章の良い所を見つけてほめてやると、一生懸命ついてくる。「どこかでつまずいたまま、手を差し伸べられず置いていかれたとしか思えない」と、女性教師。
国立教育政策研究所の有元秀文・総括研究官(国語)は、旧文部省が現行の学習指導要領に基づいて現場に伝えてきた指導法の問題点を指摘する。
「知識や技能を注入する教育を『古い学力観』だと否定し、覚えるための反復練習も軽んじた。家庭の教育力低下にも対応できず、学校は宿題も、ドリルも出さなくなった」
有元研究官は、「底辺校の生徒たちはそんな教育の犠牲になった面がある」と、苦渋の表情で言う。
「グレープフルーツ一個を五人で分けた一人分を分数で表すと、□/5?」
イラストを添えた問題は、小学生向けではない。各地の高校向けにテスト問題を作成、提供している「学習研究社」(東京)が、最近試作した「基礎診断テスト」の「数学」の問題だ。
「中学一、二年レベル」の英語と国語、「小学生から中一レベル」の数学を計五十分で解く。イラストをふんだんに入れ、全体をお話仕立てにしてある。
まだ商品化の段階ではないが、試作は「テストをしても生徒が途中で寝てしまう」といった現場の切実な声を受けてのものだった。
学研は十年余り前、従来の一般的な模試「実力テスト」より大幅に水準を下げた「基礎力テスト」を作成した。これが思わぬヒットとなり、他社も参入するほどに。「実力テスト」から「基礎力」に切り替える高校も増え、最近、「もっと易しいテストはないか」との要望が出始めた。「低学力のすそ野は、確実に広がっている」と、担当者。
実際、大学入試センターでも、現在のセンター試験には歯が立たない私大受験者などを対象に、国語と数学を組み合わせた「総合問題」の導入を検討している。基礎的な国語能力と、「数学というより算数に近い」(同センター)計算能力を問うという。実施のめどは二〇〇六年度入試。高校の三年間を新指導要領で学んだ生徒が受験する年だ。
そうしたなか、都市部では、公立校を見限り、私立の中高一貫校を選ぶ親子も着実に増えている。
大手進学塾「四谷大塚」によると、今春の私立中入試の特徴は、偏差値は高くなくても「学力面の面倒見のよい学校」に人気が集まったことだ。「新指導要領への不安もあり、私立中をめざす層が広がったのでは」と見られている。
東京都文京区の男子校、京華中学校は、今年の出願者数が昨年の二・五倍に急増した。一八九七年創立の伝統校ながら、これまでは「私学ブーム」に乗り切れていなかった学校だ。
それが急に人気を集めたのは、昨年度就任した松下秀房校長(52)が、学力向上のためきめ細かい指導を打ち出していることが大きい。毎学期の定期テスト後に三者面談をして生徒の学習相談に応じており、今年から教員だけでなくOBの大学生らの力も借り、放課後の個別指導を充実させる予定だ。もちろん、土曜も授業を行う「学校週六日制」は堅持する。
昨秋の学校説明会で、松下校長は「教える内容をカットせず、現在の内容と質を維持します。教育には時間が必要です」と宣言した。集まった親からは一斉に拍手がわき起こった。
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表=小中学校の年間標準授業時数の変化(授業時数の1単位時間は、小学校は45分、中学校は50分)=省略
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