日本財団 図書館


2000/01/07 読売新聞朝刊
[社説]新時代に挑む 「学力低下」乗り越え教育再建を
 
◆「基礎」「応用」二つの学力
 「学力低下の改善策がない」 「学力低下の実態把握が必要ではないのか」
 中央教育審議会が十一月にまとめた「初等中等教育と高等教育の接続の改善について」の中間報告に、各界からこんな注文が相次いだ。先月の最終答申では結局、学力問題に関する部分が手直しを余儀なくされた。
 昨年一年間、「学力低下」問題は教育界で最も熱い論争の一つだったと言える。しかし、学力の定義が論者それぞれに違い、論議は必ずしもかみ合わないまま、今後の大きな課題として残った。
 様々な定義、考え方が可能だが、ここでは新学習指導要領で言う「基礎・基本」と「自ら考える力」の二つに大きく分けて考えてみたい。「基礎学力」と「応用学力」と言い換えてもいい。
 一九七七年に改訂された小中学校の学習指導要領は、わが国の教育史上で画期的なものだったとされている。戦後一貫して教えるべき知識量が増え、内容が高度化して来たのに対し、初めて「ゆとり」の必要性を打ち出したからだ。
 子どもの負担を軽減し、豊かな人間性をはぐくもうというのがその趣旨で、それは今日まで変わらない。再来年実施の新指導要領では、教育内容は約三割も削減された。
 新指導要領は、早い学校ではこの春から移行措置として先取り実施されるが、その時期にゆとり路線を根底から揺さぶったのが学力低下論だった。教育内容を減らせばその分学力が低下するのは当たり前という議論は確かに分かりやすい。
 
◆ゆとり路線は間違ってないが
 しかし、ゆとりが提唱されたあの時期のことを思い出してみよう。「落ちこぼれ」「見切り発車」などの言葉が生まれ、それが「荒れ」にもつながって行ったと指摘されたのではなかったか。
 教育の過密が批判され、消化不良を起こす子どもを増やすなというのが社会の共通認識だったはずだ。その原点に立てば、新指導要領が教育内容を厳選し、「基礎的、基本的な内容の確実な定着を図る」とした方向は間違っていない。
 ただ、ゆとり路線が知識の軽視、学習意欲の減退につながっているという指摘には耳を傾ける必要がある。ゆとりが強調されるあまり、学校現場がそうした空気になっているとしたら問題だ。
 中教審最終答申は「小中学生の学力はおおむね良好であり、維持されている」とした。国立教育研究所などによる学力調査の結果からだった。
 しかし、調査が十分なものでないことは文部省自身も認めているようだ。年末に改めて教育課程審議会に「全国的、総合的な学力調査のあり方」について検討するよう諮問した。審議会では今年一年かけて結論を出す予定という。
 英米では教育の統一スタンダードの定着度を見るために大掛かりな学力テストを実施している。日本でも、学校や教育方法の評価に利用できる規模の調査が必要だ。ゆとりの一方で「基礎学力」はきちんとつけさせる。それを担保する装置をどう整えるか。論議を急がなければならない。
 
◆置き去りの伸びる子どもたち
 学力低下論に火をつけたのは大学関係者だった。「分数計算のできない大学生がいる」など「基礎学力」に関するショッキングな報告が論議をリードしてきたために忘れがちだが、大学生の学力低下論には、もう一つの側面があった。
 大学入試センターのアンケート調査で、多くの国立大学が学生のことを「問題の解き方は知っていても、概念理解に欠ける」「自主的に考え、表現する能力が身に着いていない」などと評した。つまり「自ら考える力」の問題だ。
 基礎学力をすべての子どもに一律に身に着けさせる。そのために教育内容削減などゆとり路線を進んできたのはいい。が、それに力点を置き過ぎたために、授業に飽き足らない子どもたちを放り出してきた現実が、ここに影を落としている。
 文部省は、新指導要領のもとで新設された総合学習や選択の時間をそうした子どもの指導にあてるという。しかし、具体的な方策については移行措置がまもなく始まる現在に至っても全く示されていない。学校現場では結局、教育内容の削減だけが残る可能性が強い。
 中教審最終答申にも「大学入試は学習指導要領のねらいに沿った出題を」などの文言がある。指導要領を「最低限の基準」としながら、それにこだわる画一主義を象徴していると言わざるを得ない。
 大学は、求める学生像によっては指導要領を超える入試を実施してもかまわない。良質な出題でさえあれば、子どもたちの学習意欲が刺激されることにもなろう。個人の才能に着目して、「飛び級」など早くからその芽を伸ばす才能教育についての研究や環境整備も始めるべきだ。
 
◆事故が警告する教育の危機
 科学技術をはじめ政治経済など幅広い分野で日本の将来を担い、国際貢献もできる人材を育成する教育はどうあるべきか。戦後の日本が置き去りにしてきたこの課題に取り組むべきときが来ている。
 昨年の日本は科学技術関連の重大事故が相次いだ。そこには日本の教育を考える上でも多くの示唆があった。
 茨城県東海村の核燃料加工会社で起きた臨界事故は、社会や産業の根っこを支える基礎的な力の大切さと、その危うい現状への警鐘だった。国産大型ロケット「H2」の打ち上げ失敗では、先端科学の分野で世界に伍(ご)して行ける「自ら考える力」が日本にあるのかどうかが問われた。
 教育の再構築を急がなければならない。危機はすぐそこに迫っている。

 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。

「読売新聞社の著作物について」








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION