1998/09/22 読売新聞朝刊
[社説]学校の主体性が試される
学校が、地域の実情に即した、生き生きとした教育力を取り戻すにはどうしたらいいか。中央教育審議会が地方教育行政の見直しを答申、その処方せんを示した。
「地方分権」や「規制緩和」を持ち出すまでもなく、教育は子どもに最も近いところから、その実態に応じて発想していくべきだ。答申が、文部省や都道府県の関与を緩め、学校や地域の主体的な取り組みを引き出そうとしているのは当然だろう。
国が大枠で全国的な基準を設けることは重要だが、それは根幹部分にとどめられるべきだ。現在進めている教育改革の狙いが自ら考える力、豊かな個性・人間性をはぐくむことにあるなら、教育現場がまずそうならなければならない。
二十年前「ゆとりの時間」が導入された際の例が示唆的だ。本来は学校が自由に使うべき時間だったが、文部省が通達で使い方として四つの類例を示したところ、全国の学校で、その類例を逸脱していないかどうかにのみ関心が払われたという。
何事も上からの指示に従えば安心、とのことなかれ主義がここには見られる。一方で、文部省がこれまで細かなことにまで口を出し過ぎたきらいがあるのも事実だ。
過干渉が指示待ち体質を生んだと見られなくもない。答申も指摘するように、文部省の指導、助言は、実証的調査などに基づく科学的、技術的なものに限定する必要がある。いずれにせよ、双方の意識改革が何より必要だ。
答申の具体的提言の中には現場や教育界で賛否が半ばするものもある。その一つが「学校評議員」の設置だ。
答申では「校長の求めに応じて、学校運営に関して意見を述べ、助言を行う」とされている。これに対し、特定の団体や地元有力者などによって圧力団体化しないか、などと懸念する声がある。
裁量権が大きくなればなるほど、校長が様々な局面で学校外のだれかに相談したいという気持ちは分からないではない。校長の諮問機関なら、そのような性格付けを厳格に規定しておく必要があろう。
答申が民間人の校長任用に道を開いたことについても論議は分かれている。答申は組織運営能力など幅広い視点で選んでもよいとしたが、現場には教員資格にこだわる意見が根強く残る。
教科を教えるには、確かに専門的な教育技術も必要だ。しかし、校長に期待されているのは、それよりむしろ、人材や幅広い社会的知識などを動員して学校を活性化させる能力だ。民間人の任用で学校の新しいあり方が示される可能性が少しでもあるなら、それに期待したい。
ただ、学校評議員も民間人校長も、答申は一つの試みとして提案しているに過ぎない。その他の提言も含め、今回の答申は教育現場の自由な発想を促すことに主眼がある。横並びで導入を図るのは、その基本精神に反することを忘れてはならない。
今後、答申に沿って法令を改定することになる文部省にも、念のため、安易に基準や例を示すことがないよう求めておく。
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