1989/07/28 読売新聞朝刊
大学「教養課程」解体、理念示せ エリート養成校と二極分化の危険性も(解説)
「教養課程の解体も可」とする大学審大学教育部会の審議経過が二十七日報告された。しかし「解体」の後に何を構築するかという理念は何も示されていない。
(社会部 楢崎 憲二)
昨年七月、東京のさる有名私大の総長が辞任した。常務理事ら三人も一緒で、経営トップの一斉退陣は極めて異例の事態として関係者に受け止められた。
この退陣劇が、実は教養部のあり方をめぐる深刻な対立の最近では最も分かりやすいとされる例である。新学部開設に当たって、総長らが教養課程を既設の教養部に任せず、学部に担当させようとしたところ、教養部教員らが猛反発。授業の一斉ボイコットにまで発展して、結局、総長らは新学部の開設自体がとん挫したことの責任をとったのである。
教養部教員の反発については「入試実施、カリキュラムの編成権など、既得権益が侵されるとの危機意識があったのではないか」と多くの関係者は見ている。
組織を変革していくというのは、ことほどさように極めて困難の多い大事業といえる。しかも、そこに明確な理念が示されていないとなれば、なおさらだ。
一般教育、いわゆる教養課程は戦後新制大学発足の際に、専門にかたよらず広くものを見る目、自主的、総合的に考える力を養うことを目的に導入された。しかし、その理念がしばしば忘れられ、現実が遠くかけ離れたものになっていることに異論のある人は少ない。
したがって、大学教育部会の「審議経過のまとめ」がその点をつき、一般教育と専門教育の間にある制度上の壁を取り払うことで改善への契機とさせようとしていることは、大方の関係者に歓迎されている。
しかし、それでは新制大学発足当時の理念に代わり、今の時代にふさわしい大学教育のありようとは何なのか。「まとめ」は「それぞれの大学の理念に基づく四年間の充実した大学教育を」というだけで、具体的には示さない。
「受験教育を受けてきた頭をどうときほぐし、大学にふさわしい教育を施していくのか。入学まもない学生たちに最も有意義な教育とは何か。この報告ではそうした点はすべて大学任せで、部会としての考えは何も示していない」。ある地方国立大学の教授はこう批判する。
現在、京都大、東北大、名古屋大などいくつかの大学で教養部改革が緒についている。「まとめ」のいう「各大学なりの理念」を掲げ、慎重に学内のコンセンサスを得るための努力が続けられているという。
しかし一方で、理念がないまま、教養課程という大学経営上の“重荷”から解放されることになれば、一年から四年まで語学だけ、コンピューターならこれもコンピューター一本やりという専門学校のような大学が出てくる可能性が強いと指摘する関係者も多い。
つまり、教養課程が制度上消滅することで、大学の二極分化が進むという見方だ。
首都圏のある国立大学教授は「この分化は、エリート養成大学と、言葉は悪いが使い捨て要員としての中堅実務者を養成する大学との二極化。大学間格差の拡大とも言え、受験競争をさらにあおる可能性もある」との懸念を示している。
文部省のスケジュールでは、この「まとめ」をたたき台に「中間報告」をまとめ、最終的に答申となるのは来年の予定だ。さいわいまだ時間はたっぷりある。審議会はもちろん、すべての大学での活発な「教養論争」が期待される。
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