1999/02/13 毎日新聞朝刊
[新教育の森]キーワードの軌跡 今週のテーマは・・・コミュニケーション
◇国際化で必要高まる−−「能力向上」策は模索中
「さあ、ガツンと言ってもらおうか」とアメリカ大統領。仲間内では威勢よく日本の“弱腰外交”を批判していたサラリーマンは思わず生つばをのみ込む。こんなテレビCMが大ヒットした。私たちの意識の奥深いところに触れているに違いない。それは何か。一つには、自分とは価値観や行動規範が異なる者と共にあることの違和感がある。その相手に言葉を尽くして意を伝えることも不得手だ。1990年代以降、教育改革論議では必ず「コミュニケーション能力の向上」がうたわれてきた。その受け止め方は千差万別で、英会話教育から、いじめ・不登校、学級崩壊問題に至るまで、この「コミュニケーション」がキーワードとして登場する。しかし、具体的なやり方となると、まだ模索段階だ。【玉木研二】
◆「総合学習」に期待
コミュニケーション能力を高める授業法は、特に「国際理解教育」の中で重視されている。
帰国児童を受け入れ、国際理解教育の研究を進めてきた東京都練馬区の関町小学校の公開授業を見学した。5年生のクラスでは「道徳」の時間を活用して、議論形式の授業をしている。
テーマは「村長の決断」。ある王国で飢饉(ききん)のため食物の盗みが横行した。王様は食物泥棒は理由を問わず死刑、かばった者は10年ろう屋に入れるというお触れを出した。国内のある村で、夜間巡回をしていた村長が、食物を盗んだ少女を取り押さえる。聞けば「病の母と4歳の弟がいて飢えている」という。村長はどんな決断をすべきか――。
31人の児童が八つの班ごとに「自分が村長だったら」を自由に発言し合う。ブレーンストーミングといったところだ。文字通り、教室はあらしのように騒々しくなる。
「村長が31人もいると大変だね。大事なのは、だれが一番正しいかということではなくて、どんな理由でそう考えるかということだよ」
教師がそう念を押し、全体の意見発表になった。次々に手が挙がる。だが、思いつくままバラバラにではない。「少女を見逃す」「見逃さない」に大別し、その理由に入り、議論に接点を設ける。さらに、どちらでもない「別の意見」へと進む。いわば次善の策のようなアイデアだ。村長が自分一人で判断せず、村人に意見を求め、王様にも相談する。刑を軽くしてもらう……。議論はどんどん活発になる。
2002年度から実施される新学習指導要領は教師が独自に授業内容を決める「総合的な学習の時間」を導入し、自ら考え、表現する「主体的な課題解決型能力」の育成を強調している。コミュニケーション能力を高める授業は、従来の教科学習の中では時間が不足し、なかなか実践できない実情もあった。総合学習はこれに道を開くチャンスと期待する声は多い。
ただ、それには目的や方法論をきちんと詰めていく必要がある。
元小学校教師で、ディベートを取り入れた授業の普及を進めている「全国教室ディベート連盟」常任理事、上條晴夫さん(41)は「不同意、つまり『ノー』と言う技術を教えなければならない。『ノー』と言った後の理由づけが重要なのです」と言う。
あるテーマについて賛否の2グループに分かれて一定の時間内に立論(論の組み立て)・反駁(はんばく)で競い、判定を受けるディベートは、旧来の「異を唱えるより和を」という日本の中では普遍化しにくい側面もあった。しかし、価値観が多様化し、国際的な交流があらゆる分野で不可避になった今、ディベート技術は不可欠になってきた。
ディベートでは相手の主張を徹底的に聞き取り、理解しなければ競えない。小学校4年生ぐらいから、なだらかな形で導入できるという。
◆ビジネスとして
一方、こんな「コミュニケーションを楽しむ場」も登場した。
東京都新宿区歌舞伎町の「ロフトプラスワン」。コマ劇場そばのビル地下2階。一見ライブハウスの趣だが、出し物は「トーク」。つまり、おしゃべりで、歌舞音曲もカラオケもない。
3年になる。毎日テーマを替え、話をリードするゲストが「一日店長」となって進行を仕切り、客たちとやり取りをする。
私が行った夜のテーマは「B級特撮テレビ映画」。別の日にまたのぞくと「ダメで悩んでいる人たちの夜」。前者がいわゆるオタク趣味の同好者の集いなら、後者は「生き方模索派」という色分けができるかもしれないが、とがった論戦があるわけではない。まれに、硬派な政治テーマなどで激論になることもあるそうだ。しかし、おおむね皆優しく、ウイットの利いた発言がうけ、笑いが話をつなぐ。
客の主流は20代から30代半ば。常連もいるものの、テーマによって客は大きく変わる。自分の関心事であることが第一である。そして、仕事帰りに職場の同僚らと一緒にというパターンは少ない。一人で来て見ず知らずの人間と話す。職場では知られていない側面をここで見せることもできる。これが魅力である。
「討論というより、コミュニケーションする店なんです」と店長の加藤梅造さん(31)は言う。創始した全共闘世代のオーナーは硬派な論戦も期待したそうだが、テーマは環境問題から風俗まで際限なく分かれた。
「映画やコンサートは終わったら、会場を出され、客は散っていくしかない。知らない者同士が『いやあ、今の映画は……』と話したくてもね。ここでは、朝まで残って話したいだけ話していける。意外にそういう場がないでしょう」
加藤さんは大学を出た後、有名コンピューター会社のエンジニアになったが、この「トークライブ」に共鳴し、脱サラした。今、若者の間に広がるインターネットによるコミュニケーションには懐疑的だ。「人に会わなくては。リスクのない言いっぱなしでは、だめだと思います」
学校や公的組織が設定したものではなく、ビジネスとして成り立つ「コミュニケーションの場」。この“需要”がどれほどの広がりを持つのか、まだ分からないが、新しい可能性を開くものかもしれない。
◆記者ノート−−「違い」受け入れる難しさ
「コミュニケーションの不足、不得手」という言葉は、今日の教育評論に何かにつけて登場し、便利な決まり文句になった観がある。私は全くケチのつけようのないこの言葉に、いや、ケチのつけようのない言葉だけに、すんなり受け入れられないものがある。
気になるのは、大人と子供、あるいは子供同士がコミュニケーションを十分取ろうという主張が、しばしば「ハラを割って話せば通じ合う」「互いに同じことを感じ、考えていることが分かり、理解し合える」という意をはらんでいることだ。
果たしてどうか。
晩ご飯のメニューを聞き、満足かどうかを伝えるような意味でのコミュニケーションはここではさておく(それも重要なことだが)。互いの思考を伝え合い、論じ合うという教育課程や学習指導要領で想定しているコミュニケーションのことである。突き詰めていえば、それは「相手と自分は違う」ことをきちんと理解し、それでも仲たがいをしない、ということではないだろうか。
これは「心構え」で解決するものではない。スポーツのように体系化された訓練が必要なのではないかと思っている。日本の学校教育現場では、意見発表授業はあるものの、相反する互いの思考・主張を論理立てて示し合い、そのすきを突き、とことん詰めるというディベート式の授業法はまだ十分定着していない。
そうしたことになじまない精神風土もある。
私は1960年代末に高校生活を過ごした。発熱したような“政治の季節”であり、クラス討論なるものが開かれた。ある時、テーマは忘れてしまったが、議論がある方向で固まってしまったので私が「あえて反対意見を言う。皆が同じような意見になってしまったから」と発言したら、議論をリードしていた級友が怒り出した。
「お前はふざけている。みんなと同じ意見になりたくないから反対するとは、どういうことだ。まじめに考えているのか」
有無を言わせぬあの空気が、ほろ苦い記憶にある。
〇…メモ…〇
1980年代半ば、4次にわたって答申した首相直属の臨時教育審議会(臨教審)は「個性重視」と「生涯学習体系への移行」「変化への対応」を打ち出し、今日の教育改革路線の基本レールを敷いた。その中でしきりに強調されたのが「国際社会の中で生きる日本人」である。
明治以来、欧米の先進技術と学識を輸入・消化し、効率のよい産業国家を作り上げた日本は、第二次大戦後もその延長を走り、経済の上で「追いつくべき目標」を失ったころ、臨教審が登場した。
答申は「創造性・考える力・表現力の育成」「コミュニケーションに役立つ言語教育」などを挙げ、知識詰め込み型の受け身教育からの脱却を強調した。平たくいえば「どこに出しても堂々と論陣を張れる、恥ずかしくない日本人になれ」という響きがある。
だが、ここ数年、「コミュニケーション」は違った側面からも論じられるようになった。子供たちが心を閉ざし、対大人、子供同士でもうまく意思疎通ができなくなっているという「コミュニケーション不全」論である。かつて、価値観や考え方が全くかみ合わないという意味で使われていた「断絶」とは異なる。他者とかかわろうとしない、あるいは、できない子が増えているという。最近の小学校の学級崩壊の背景にもこれを指摘する声は多い。
これについては、学校教育、家族・社会環境、児童心理学、児童精神医学などさまざまな角度から、その解明や改善策が論議されているが、80年代まではまず想定されなかった事態だ。
近代学制発足以来1世紀を超えながら、「コミュニケーション」がキーワードとして比較的最近になって現れたのは、逆にいえば「同文同種」に安どした長い「均質・一斉教育」システムの中で、その必要性があまり意識されなかったせいだろう。この言葉が十分こなれた日本語に置き換えることができない事情もその辺にある。
国際化と学級崩壊。異なる方向からの“外圧”からとはいえ、コミュニケーション論議の進展は日本の教育のかたちを転換させる可能性もある。
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