1999/02/08 毎日新聞朝刊
いじめ、不登校、学級崩壊・・・ 子供にとって学校とは――教育研究全国集会から報告
◇模索続ける教師−−安心できる居場所作りへ
「新しい学校の哲学が必要なのではないか」――岡山市でこのほど開かれた日本教職員組合の教育研究全国集会(第48次)で、このようなアピールが出された。いじめ、不登校から学級崩壊へと、学校をめぐる危機意識が内外に深まっている。いま、子どもたちにとっての学校とは何なのか。教師たちの模索を、特別分科会「いじめ・不登校」の論議を中心に報告する。【池田知隆】
●変わる「不登校」観
「中学1年秋から卒業するまでの2年4カ月、不登校の娘とともに人の視線を針のように感じ、心身ともにつらい思いをしました」。広島県の小学校の養護教諭は、自らの病気休職の体験を重ねながら「子どもにとって休むことがいかに必要なことか、わかりました」と語りかけた。「学校で勤務して20年余、『個性豊かに』といいながら画一的な教育をしたり、子どもの人権を唱えながら実際にはなおざりにしたりしてきた」。教師も、親や子どもと同じ地平から学校を見つめようという報告だった。
この特別分科会は4年前、いじめによって自死した愛知県の中学2年生、大河内清輝君の事件をきっかけに設けられた。当時、大阪で開催された集会(大阪教研)では、「不登校をいかに克服するか」というテーマが掲げられたが、子どもたちから「克服され、治癒されなければならない対象なのか」という異議が出された。1997年の岩手教研では「学校を休む権利」がキーワードになり、昨年の鹿児島教研では子どもたちの声を正面から受け止めようと「子どもフォーラム」が初めて開催され、子どもたちによる「私たちでつくる私たちの学校」が論議された。
今回は、「不登校は“病理”ではなく、子どもたちの“選択”」との共通認識が広がり、同分科会内の「子どもフォーラム」では「たとえどんなに“いい学校”になっても、行かない権利がある」という訴えがあった。学校にとらわれない子どもたちの生き方をどう受け止めるか、が教師に問われていた。
●カウンセラーとの連携
「心の教育」の必要性が叫ばれ、学校に派遣されているスクールカウンセラーとの連携も論議の柱になった。「阪神大震災の後遺症で、心のケアが必要な生徒が多い。不安定になっている子どもたちにまず落ち着いてもらうためにもカウンセリングは有効だ」(兵庫)「子どもたちに正論を言っても通じない。まずは共感することだ。教師にはカウンセリングできる能力と、教師自身のカウンセリングが必要だ」(山梨)など「スクールカウンセラーは効果的」という報告が多かった。だが、「苦しんでいる子どもたちに寄り添うのはいったいだれなのか。本音で語りあえるように学校の空気を変えるのは教師ではないのか」「カウンセラー依存は、教師にとって教育の当事者性の放棄につながりかねない」との意見もあった。
分科会の助言者でカウンセラーの内田良子さんは「スクールカウンセラーによって生徒たちの悩みが個人の問題とされ、社会全体として考えなくてはならない問題があいまい化される」と指摘。子どもが安心できる居場所を作るために、「学校改革の視点に立ち、地域、カウンセラーと連携した学校づくり」が課題としてあげられた。
●無制御のストレス発散
弱者へのストレス発散としての“いじめ”から、無コントロールな発散としての“学級崩壊”へ――。子どもたちのシグナルも時代の流れとともに変化している。「20年間、教師をしてきて、子ども同士の交流が希薄になった、と感じる。ほんのささいなことに傷つき、学級内でのコミュニケーションがうまくとれない子が多い」(鹿児島)「4年生の担任をしているが、いじめと不登校は当たり前で、話に耳を傾けない子が多い。暴力をふるう子もいる一方、いつも黙っていて、何の反応もしない子が気にかかる」(広島)と、この分科会でも学級崩壊をめぐる報告が相次いだ。授業中、子どもが騒ぎ、歩き回ったりして教室が無秩序な状態となる中で、教師の語りかけに無反応という“静かな崩壊現象”にも関心が集まった。
●教師の間の連帯は
「子どもフォーラム」では、子どもたちから「生徒と教師の間で信頼関係を築くには、教師もまず本音で語ってほしい」「学級崩壊の前に、職員室での人間関係が崩壊してはいないか」との発言が続いた。助言者の坪井節子弁護士は「学校内の『いじめ対策委員会』に子どもたちが参加できるのか。解決の糸口を探すには、教師こそその閉鎖性を問い直し、教師の間の連帯の難しさを乗り越えて、親や地域に学校を開いてほしい」と語っていた。
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