日本財団 図書館


1991/04/04 毎日新聞朝刊
[教育どこへ]先生の現実 断絶と交流/2 年間100日超える家庭訪問
 
◇体当たりに心開く
 「人間を人間として大切にしたい」。大阪のある公立高校のスローガンだ。八六年三月、第一期生代表が卒業式の答辞で語った言葉が、今も受け継がれている。
 今春の卒業生を含め、障害を持った生徒が約三十人。近くに別の公立高がありながら、片道一時間以上もかけて自力通学する生徒もいる。入試をパスする必要があり、特別な障害者の受け入れ枠を設けているわけではない。在日韓国・朝鮮人、被差別部落出身者も多く、中国からの帰国者、ベトナムからやってきた生徒も増えている。
 教師たちは障害者らを「クラスの中心」と位置付けている。障害者、不登校生徒らを対象とした教師五、六人の委員会を設け、問題解決を目指す。こうした取り組みについて、ベテラン教師の一人は「そもそも学校の創立の背景に解放教育を担うことがあった」と話す。
 開校翌年の八四年に赴任、現在、障害者を担当する男性教師(34)には忘れられない光景がある。
 最初に担任したクラスの男子生徒の自宅を訪ねた時のこと。女手ひとつで三人の子供を育てている母親は、息子の退学届に自分の名前を書いたものの、退学の「理由」欄には何も書かず、三十分以上も沈黙を続けた。
 男子生徒は当時、ある事件を起こし、退学を決意。思いとどまるよう何度も説得したが、聞き入れなかった。母親が退学届を前にボールペンを握りしめながら黙っているのは、まだ迷っているせいと思っていた。母親は最後にポツリと言った。「私、字を知らんのです」
 「アッ」と思った。生徒を理解していたつもりだった。母親は小学校にも行けず、働き詰めの人生を歩んできた。「ほんまのしんどさなんか何もわかっていなかった」。教師は「字が書けるのは当たり前」と人と接してきた自分を恥じた。
 「今から行くけど、いいか」。生徒の自宅に電話をかけ、足を運ぶ日々。呼び出しても出てこない場合は、近くの公衆浴場の前で待ち続けた。一緒に湯につかり、心を開くのを待った。この高校は開校以来、一昨年まで毎年百人以上の中退者を出してきた。偏差値ではじき飛ばされた生徒も多かった。男性教師にとって家庭訪問は「お前たちを決して切り捨てないぞ」との意思表示だった。
 この高校では、年間百日以上も家庭訪問を続ける教師が多い。開校当初、学校は荒れた。しかし、教師たちは「人間を大切に」と、生徒にぶつかっていった。教師との思い出を大切に巣立っていった第一期生が、教師たちの「原点」ともいう。
 教師たちの“体当たり教育”で中退者は昨年から二ケタに減った。そして、ここ数年障害を持った生徒の入学が増え始めた。教師はそうした生徒一人ひとりと話し込む。学校生活での希望、将来の夢は――。
 女子生徒の一人は「先生が本当に自分たちとかかわってくれる」。将来は米国の大学で福祉を学びたい、と希望を語った。
 施設面では、校内の段差解消や、障害者が体育の授業を受けるための教室などを実現させた。しかし、就職など社会の壁は厚く、学校教育の力だけではどうしようもないと実感する。
 四月。新入生との出会いとともに、教師らの企業訪問が始まる。障害を持った生徒の働く場と社会の理解を求めて。そして、中国からの帰国生徒らを対象とした委員会が新たにスタートする。=つづく
 
 ◇本シリーズへのご意見、ご感想を投稿下さい。400字以内で住所、氏名、年齢、職業を明記、〒100―51東京都千代田区一ツ橋1の1、毎日新聞社教育取材班へ。


 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION