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1997/07/06 読売新聞朝刊
[地球を読む]憲法と私 動かし得ぬ自衛権(寄稿)
岡崎久彦(元駐タイ大使)
 
◆成文法超える固有の強さ 親近感持てぬ憲法
 今年は憲法施行五十周年にあたる。
 その半世紀を憲法と共に生きた世代として、個人的な経験からお話しする事について読者のお許しを得たい。
 私は正直に言って五十年間ただの一瞬もこの憲法に親近感を持った事もないし、憲法の文言、表現―別の言葉で言えば憲法の精神―を政策の指針と思った事もない。第九九条には、公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負うと書いてある。四十年間公務員を務めつつ、私の日常の言動は憲法違反ではないかと真面目に自問した事もある。
 憲法に親近感を持てない理由は二つある。
 一つは、私の世代が丁度憲法制定の頃に高校生、大学生であり、憲法制定にかかわった人々から、その経緯を直接間接に聞く機会が多かったからである。
 憲法九条のくだりとなると、関係者は声をひそめて、「これだけはどうしても説明出来ない条文です」と言って占領当局に逆らうべくもなかった事情を語った。
 原文の英語の翻訳の苦労の話も聞いた。
 大臣はシヴィリアンでなければならないと書いてあるが、それに当たる日本語はない。文官という言葉はあるが政治家は官吏ではない。武人、武士の反対語としては文人、文士があるが、大臣を文人、文士に限るわけにはいかない。そこで本来日本語でない、ブンミンと言う言葉にしたという。
 こういう証言は、占領軍の検閲の下では活字になりようもなく、記録は残っていない。私の記憶も五十年前の事であるから不正確な点もあろう。
 しかし歴史の大きな流れを見るのに証拠は不必要である。朝鮮戦争を北が始めたと言う証拠を求めるのは時間の無駄である。十分な兵力と装備で一挙に釜山まで衝(つ)こうという北側の準備態勢と、不意をつかれた韓国の周章狼狽(ろうばい)ぶりを見れば、北から攻撃を始めたのは常識の問題である。
 日本は戦争に負けて占領されていた。第九条など日本から言い出すはずもなく、占領軍に押しつけられた事は、口から耳への伝達で誰もが知っていた。民衆が常識で知っている歴史、これが本当の歴史である。
 憲法施行の翌年、ソ連軍占領下のチェコで、国民が敬愛していたマサリック外相は事故死したが、ソ連の圧迫下で外務省の窓から墜死した事はチェコ国民は誰もが知っていた。
 その後日本憲法は日本人の発案だなどという白々しいことが言われるのを聞くだけで、憲法に対する嫌悪感は避け得ようもなかった。
 もう一つは、いわゆる護憲派に対する不信感である。
 冷戦時代、ソ連の共産党は、全世界の社会主義運動の総本山として、対日政策についてもいろいろ指令を出した。それはやがて、日本国内の左翼的な政党とマスコミ、そして共産党の用語では前線組織と呼ばれた各種団体の行動方針の中に反映された。
 それはいろいろな表現の形をとりはしたが、冷戦期間を通じてその目的とする所は一つしかなかった。それは日本の防衛力を弱くする事と日米同盟の絆(きずな)を緩めることであり、端的に言えば、ソ連が日本に侵入する際に日本を取り易いようにして置く事に尽きていた。
 もちろん誰も彼もが意図的にソ連の利益のために働いたわけではない。当時共産主義の強い影響下にあった日教組の教育により、何となく憲法は良いものと思っていた人が大部分であったろう。
 
◆日本の弱体化招く
 しかし、そういう人たちがいかに自分は善意だと信じていても結果は明らかに、日本の安全を脆弱(ぜいじゃく)にするソ連の意図通りに踊っていた。日本の軍事力の弱体化を意図した占領軍憲法が、冷戦後米国の政策が日本の軍備増強に転じてからは、日本弱体化を意図するソ連のプロパガンダによって護持されたのである。こんな憲法に親近感の持ちようもなかった。
 こう感じるのは私だけではないのであろう。現に、憲法改正を党是とする自民党が、憲法改正に必要な三分の二には足りないが、冷戦中、常に過半数を占めてきたことからもわかる。
 他面、公務員として日本の安全にかかわる仕事をしていると、どこかで国家の体制と自分の職務との間に論理的整合性を見いださねばならない。その中に自然に形成されてきたのが、今に至る私の考え方である。それは現在の自衛隊と日米同盟の根拠法規は成文憲法ではなく、不文憲法である自然権だという理論である。
 
◆「憲法の精神」離れて 侵略とは一線画す
 この考え方が日本の中でまったくの少数派である事は良く知っている。護憲派は現行憲法を金科玉条としているから、憲法より強い不文法がある事など到底認めたくない。改憲派はそう考えると改憲の必要が無くなってしまうから困る。法律専門家は成文法が軽視されては彼らの職業が成り立たないから反対である。だから私は未(いま)だかつて私の考えに賛成の人に出会った事がない。しかし、そうだという事と、私の理論が正しいかどうかとは全く別の問題である。私に反論されるのならば、少数説であることと成文法無視であるという二つの論点は超克して、虚心に法哲学的に論じて頂きたい。
 まず法の裁きを尊重する人は私の議論に反対出来ないはずである。憲法に有権解釈を下せるのは国会でもなく、法制局でもなく、憲法学者でもない。裁判所である。その裁判所が、「我が国は独立国として固有の自衛権を有する」と言って、それを自衛隊正当化の根拠としている。
 憲法のどこを読んでも自衛隊の根拠となる条文は見当たらない。しかし、それが「固有の自衛権」である事は、憲法の規定する手続きにしたがって裁判所が下した有権解釈でもう決まっているのである。
 それでは、「固有の権利」とは何であろう。判決は国連憲章第五一条と同じ言葉を使っている。英語のインヒヤレントの解釈は難しいが、フランス語では「正当防衛の自然権」となっている。つまり、人間が呼吸をし、食を摂(と)り、自分や家族に対する危険から身を守るという自然の権利である。自然権は、どんな成文法でも禁止しきれないという意味では、憲法も含めていかなる成文法よりも強い。日本語の「固有の」は「もともとある」という意味であり、憲法が出来る前からもともとあるという意味で、適切な訳である。
 国連憲章第五一条については裏の経緯がある。
 アメリカはウィルソン以来の見果てぬ夢で、第二次大戦後は何とか世界政府に近いものを作って世界の平和を守ろうとした。しかしソ連の拒否権を認め、理想主義的政策が不可能とわかった時点で国家がもともと持っている権利を再確認するという形で、この条項が挿入された。
 日本の憲法についても同じ事が言える。憲法作成当時のアメリカの理想主義が機能しない事はもうその翌年から始まる冷戦で明らかとなった。そして朝鮮戦争後は、日本をとりまく状況はアメリカが憲法で想定したものとかけ離れてしまった。しかし、作成中だった国連憲章とは違って、憲法は改正がほとんど不可能なように作ってしまったあとだった。そこで、日本の司法の良識による判決が、国連憲章において第五一条が果たしたと同じ役割を憲法に対して果たしたのである。
 その結果、自衛隊と日米同盟の法的根拠は、不文法である固有の自衛権となり、憲法第九条とは無関係となった。九条がもう少し自然権に近ければ妥協もあり得たが、あれほどナイーヴな平和主義をふりかざしてはどうにもならない。国連憲章の第七章の大部分は、事実上死文となってPKOとも多国籍軍とも無関係であるが、憲法九条も自衛隊や日米同盟とは無関係になってしまった。
 こう整理して考えると、もういちいち「憲法の精神」などと言って、牽強(けんきょう)付会な議論をする必要もなくなる。すべてを、独立国に固有の自衛権に反するかどうかで判断すればよい。歯止めは、憲法の源流であるケロッグ・ブリアン条約通り、侵略戦争と自衛戦争の間に線を引けばよい。集団的自衛権と個別的自衛権を区別する法的根拠はどこにもない。
 固有の自衛権の内容が、個別的及び集団的自衛権であることは、日本が憲法手続きにしたがって批准した平和条約、安保条約、国連憲章に明記してあるから議論の余地はない。裁判所の判決も、集団的自衛権と個別自衛権の間に線を引いていない。
 線を引くという事は、刑法三六条の正当防衛権について、「急迫不正の侵害に対して自己又は他人の権利を防衛するため」という文言から「他人」を削除する事に等しい。自分は護(まも)っても良いが、妻や子は見捨てる、と言う事であり、この二つを分離する事はもともとあり得ない事であって、今後とも裁判所がこんな乱暴、粗放な判決を下すはずがない。
 それを分離する事の社会的政治的インパクトの深刻さは見捨てられる方の心理を考えればわかる。守るのは俺(おれ)だけで家族は守らないよと言われれば家族の崩壊につながるし、有事に際して同盟国を守らないと言って、同盟の信頼関係がもつはずがない。
 
◆孤立は破滅への道
 集団的自衛権はおそらく、自然法の源泉である人類の遺伝子に深く組み込まれているのであろう。いざという時に仲間を助ける個体と助けない個体とでは前者の方が当座のリスクはあっても、結局は生き延びる率が高い。仲間を見捨てる個体は、仲間からも見捨てられるから自然に淘汰(とうた)されるであろう。
 同盟国を見捨てれば同盟国から見捨てられる。こうした人類、国家の自然の法則を無視して成文憲法の字句ばかりにこだわっていると、再び国際的孤立を余儀なくされ、破滅の道を辿(たど)る恐れが出てくるのである。
 
◇岡崎 久彦(おかざき ひさひこ)
1930年生まれ。
東京大学法学部中退。英ケンブリッジ大学大学院修了。
東大在学中に外交官試験合格、外務省入省。情報調査局長、サウジアラビア大使、タイ大使を歴任。
現在、岡崎研究所所長。


 
 
 
 
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