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2002/05/03 産経新聞東京朝刊
【主張】憲法記念日 変化求める「国のかたち」 想定外の新事態にも備えを
 
 施行五十五周年の憲法記念日を迎えた。この半世紀の間に日本を取り巻く国際情勢は憲法施行時(昭和二十二年)とは激変している。昨年九月十一日の米中枢同時テロを受けて、国際社会がテロリスト撲滅のための共同行動に乗り出したことも、その代表的事例のひとつだろう。
 しかし、国際社会との連帯が日本の課題になっているにもかかわらず、現行憲法による足かせは日本の行動を制約しつづけている。集団的自衛権を「保持しているが、行使できない」とする政府解釈が、共に活動している仲間たちが攻撃されても守ることができないという硬直した対応を強いているからにほかならない。
 ブッシュ米大統領は三月十一日、ホワイトハウスでのテロ半年後の追悼式典で、「日本の自衛艦がインド洋で連合軍の船に燃料を補給した」と謝意を表したが、自衛艦のインド洋での活動範囲は、「戦闘区域」を除くだけでなく、戦闘行為が行われることがないと認められる「非戦闘区域」に限定されている。
 ブッシュ大統領の謝意は額面通りに受け止めたいが、近代戦では「非戦闘区域」は一瞬にして「戦闘区域」に変わる。その場合、自衛隊は任務を中断して避難する。これではテロと戦う国際的連帯は成り立たない。こんな事態が起きたとき、はたしてリスクを共に分かち合おうとしない仲間を信頼することができるだろうか。
 
◆乖離広げる憲法の足かせ
 日本がこうした対応しかとれないのは、いうまでもなく領域外での武器使用は、自己防衛を除き、武力行使と一体化するから認められないとする内閣法制局の解釈に基づいている。
 憲法が想定していない新たな事態にどのように対処するかを模索することなく、憲法解釈でその場しのぎの対応を取れば取るほど、現実との乖離(かいり)が広がっていく。
 問題の根幹はしたがって解釈の是非というより、憲法そのものにあることははっきりしている。憲法第九条の「国際紛争を解決する手段」としての武力行使の放棄規定が、非国家組織である国際テロリストにあてはまらないことはその一例である。
 この規定は、原案の「他国との間の紛争の解決の手段」を衆院で修正したもので、一貫して他国との紛争を前提にしてきた。それだけに国際テロリストに対し、他国との紛争規定をあてはめて、対処することには無理があるのである。
 作家の三浦朱門氏は、最近出版された「国のこころ 国のかたち」(本紙掲載の「二十一世紀日本の国家像を考える」座談会を再構成)で、「国のかたち」(体質)というのがコンスティテューション(憲法)の一番基本的な意味だと述べ、「日本の国家は体質の新しい表現を要求しているのではないか」と重要な指摘を行っている。
 
◆基本的価値は「安全」
 「国のかたち」=「憲法」とすれば、戦後施行された現憲法は「平和希求」を「国のかたち」の基本にすえていたのは疑いない。それが最初から没意義であったというのではない。しかし、いまや「安全」を基本的価値に置かなければ、生存が担保されない時代に入っている。
 にもかかわらず、二年半前に設置された衆参両院の憲法調査会もいまだ「論憲」の段階で足踏みしたままだ。国の根幹を考える努力を政治が怠っているとしか言いようがない状況が続いている。
 グローバリゼーションや国境なき世界というスローガンがもてはやされている中、国家不要論すら聞こえてくるが、いざというとき、国民を守るのは主権国家の政府でしかないことは同時テロとその後の各国の対応が物語る。
 四月二十八日には主権回復五十周年を迎えた。新たな「国のかたち」を打ち出すひとつの潮時であろう。それは、「平和を愛する諸国民の公正と信義」(前文)を信頼する「依存」ではなく、国際共同行動に対し、軍事面も含めた負担を分かち合う「自立」にあるともいえよう。憲法改正に意欲的な姿勢をみせていた小泉純一郎首相と民主党の鳩山由紀夫代表は、あるべき「国のかたち」をめぐり、国民的論議を巻き起こす重大な使命があろう。


 
 
 
 
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