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2000/02/21 産経新聞東京夕刊
【久保紘之の天下不穏】憲法改正論議に欠けるもの 教育基本法とセットで見直し
 
 衆参両院に設けられた憲法調査会で本格的な議論が始まった。といっても、まだ軽いジャブの応酬くらいだから、今後の論議の実りある展開について悲観も楽観もできる段階ではないだろう。
 ただし、同じ与党とはいえ憲法第九条の改正を視野に入れている自民・自由両党に比べ、公明党が「第九条堅守」をうたっているのは、今後の“雲行きの怪しさ”を予感させる不安定要因の一つといえるかもしれない。
 同党では「第九条堅守」と並べて「憲法は個人の尊厳を守ることを中心に組み立てられており、それを支えるものとして国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三原則も条文もある」と主張する。
 もちろん、この三原則や国際主義という戦後憲法の根幹をなす原則を堅持していくべきだとする基本姿勢について、各党にそう違いがあるわけではない。
 いま重要なのは、そうした憲法の「諸原則」と半世紀間の日本を取り巻く内外の「現実」との間に生じた乖離(かいり)と、その結果、日本が陥った現在の手詰まり状態を率直に見据えることだろう。
 たとえば、「武力の保持と国の交戦権それ自体を否定した」第九条二項とは、独立国が国家主権を完全に放棄し、拒否し、否認したことと同じことだろう。
 戦後憲法の最大の問題点は、いうまでもなく「国家」と「国民」とを、まるで対立しているかのごとく扱い、国家を考えることがあたかも「悪」であるかのごとく、国民意識に刷(す)り込んできたことだ。
 「国家(国家主権)」を罪悪視したうえに成立する国民主権や基本的人権が、いかに国民の間に放縦(ほうじゅう)な生き方をはびこらせ、政治や経済機構をだめにしたかは、欲望民主主義に支配された半世紀を振り返ってみるまでもあるまい。
 国家を支える自覚(国家意識)を罪悪視した「平和主義」のもとで国民の危機管理意識の育つ道理があるまい。同じく愛国心の欠落した「国際主義」がアメリカのヘゲモニーにひたすら擦り寄る以外に何の芸もないことも、すでにいやと言うほど見てきた。
 いま公明党の主張のように、第九条を含め国民主権、基本的人権、平和主義の三原則など憲法の条文はすべて「個人の尊厳を支えるものとしてある」と単純に言い切ってしまうことは、「国家のメルト・ダウン(炉心融解)」の秒読み段階に入っている日本の「現実」を、何も見ないことと同じである。
 さて、憲法調査会の論議でそれにもまして珍妙なのは、民主党のスタンスである。
 たとえば、自由党がだれ憚(はばか)ることなく「憲法改正」を打ち出し、自民党が「憲法制定前後の歴史的経緯について共通の認識を得て議論を進めることが望ましい」と述べたのに対して、民主党はこう主張したのだ。
 「はじめに改正ありきの立場はとらないが、同時に憲法改正をしてはならないとの立場もとらない」「制定過程の議論も行われて当然だが、あくまで二十一世紀を構想する立場から議論を」と。
 民主党の“ダッチロール飛行”は、旧社会党から自民脱党組の保守派まで入った党内事情にあるのだろう。が、それはいまはどうでもいい。
 問題は、「論憲」の立場をとる民主党内で幅を利かせているのは、かつて細川護煕元首相が提唱した「新しい改憲論」対「復古的改憲論」の対立軸だということである。
 ここでは、自民党のこだわる「憲法制定前後の歴史的経緯」、つまり「アメリカによる押し付け憲法論」の主張は細川流の区分けでは復古的改憲論へ。一方、今様トレンドで世論受けをねらった「国際貢献など新たな問題への対応」のための憲法改正論は新しい改憲論へというわけである。
 注目すべきは、このトレンドは民主党だけでなく、自民党まで含めた若手議員たちのお気に入りの改憲ファッションだということ。
 結論を先に言えば、この区分けは明らかに見当違いだと、いうべきである。今日の日本国家の混迷の最大の原因が「国家の自立と国民の主体性の欠落」にあるとするなら、改憲論の原点は、あくまで憲法制定前後の歴史的経緯、つまり「アメリカによる押し付け憲法論」の原点を避けて通ってはならないのだ。
 たとえば『前回』、電子金融戦争で完全勝利したクリントン米大統領の国家戦略、すなわち経済戦争の仮想敵国・日本とドイツに対する「弱体化政策」の淵源(えんげん)をたどってみよう。
 それは「日本国が再び米国を脅かすことのないよう」で始まる『敗北後における米国の初期の対日方針』(SWNCC150、一九四五年八月二十二日)が、最高司令官ダグラス・マッカーサーの指示した新憲法起草をはじめ日本統治に落とした影を、今日に引きずる歴史的事実なのだ。
 もちろん、SWNCCは死文ではない。たとえば平成五年五月、NYタイムズがスクープした米国防総省の秘密文書には「米国は、米国と競合し得るいかなる大国の抬頭も阻止する方針であり、日本とドイツの軍事力強化を抑える」とあったとしている。
 この表現は、その後公になった公式文書には出ていないが、同年七月に公表された国防総省の『アジア・太平洋の戦略的枠組み』には「アジアにおける米国の目標は…、いかなる覇権国、あるいは覇権的連合が生まれることを阻止することだ」とある。
 つまり「日本弱体化政策」は、ちょうど間欠泉のように、ことあるごとに噴き出しているのである。
 アメリカのえげつなさを、いまさらあげつらっても仕方あるまい。いま重要なのは「人類世界が依然として野蛮なしには一日とて成り立たないこと。そのリアリズムを理解しえなかったのは、戦後日本人の精神が幼稚だったから」(西部邁『論争ふたたび』日刊工業新聞社)という一点を凝視して、憲法改正草案を練り上げることだろう。
 
 勝田吉太郎・京大名誉教授の『教育基本法見直し論』は、哲学者・田辺元の「種の論理」を引用して、最近流行の「個の尊重」「自立した個人」には「人類と個の間を架橋する中間項としての国、民族、郷土、伝統文化、家庭などへの言及がまったくない」と嘆じ、戦後精神の荒廃の元凶をそこにみている。
 思えば、明治憲法と教育勅語をともに執筆したのは井上毅だった。
 いまの憲法改正論議に欠落している最大のポイント、それは憲法と教育基本法の「ワンセット見直し」の視座ではないだろうか?
(編集特別委員)


 
 
 
 
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