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1998/05/03 産経新聞朝刊
【主張】憲法改正 「家庭教育」を含めたい 忘却された視点の論議を
 
 ことし二月十六日の橋本龍太郎首相の施政方針演説冒頭に次のような一節があった。
 「年長者を敬い、親から子へと心の大切さや生活の知恵を伝えていくことのできる社会、そして、豊かな自然や伝統、文化を大切に守り、伸ばしていけるような社会をつくりあげたい、心からそう思っております」
 言葉は平易だが、日本人が大事に守り通してきた価値観が素直に表現されていると言えないか。
 「日本人の大人の集団やアイデンティティーの感覚は家庭生活で養われる。子供たちはアメリカの子供たちのように独立独行になるようには教育されていない。親と同じ部屋で眠り、幼年時代はほとんど、親と一緒に入浴する。親子はお互いに依存し合っており、この相互依存は好ましいこととされている」
 これはキョウコ・イノウエ氏の著作「マッカーサーの日本国憲法」からの引用だが、こうした慣習は戦前ではごく普通の日常風景であったし、今なお多くの家庭に引き継がれている光景でもあろう。
 この家族観ないし土壌に英米的な個人主義の原理が注入されると、どうなるのか。時の経過とともに異様な化学変化が起きている遠因は実はここにあるのではないか。たとえば家庭内別居や無言の親子兄弟関係、父権の喪失、果ては家庭内殺人事件などである。
 イノウエ氏は前記の著作で「日本側はアメリカ側が課してくる民主主義の原理が、日本の政治社会体制にいくつかの深刻な影響をもたらすであろうことをよく知っていた。第二四条は伝統的な日本の社会構造にとってもっとも重大な脅威となった」と洞察を加えている。
 
◆戦後社会の荒涼たる景色
 憲法は施行されてすでに半世紀を経過し、主要国の中で改正されていないという点では“最古の憲法”の記録を日々更新している。
 いま日本ではバタフライナイフによる恩師殺人事件をはじめとして、少年による痛ましくもおぞましい事件がいつ果てるともなく襲っている。
 これらの異様な現象は戦後教育の一端を担ってきた学校教育などにも責任はあろうが、ここでは、普通の社会規範や常識の復権をはかりたいという見地から、家庭教育を憲法の中でどう位置付けるべきかを考察したい。
 われわれにも反省がある。産経新聞はすでに二十年近くにわたって憲法の改正を提起してきた。それは安全で繁栄した、そして誇りの持てる国をつくりあげ、次代の日本人に引き渡すという視角からの提言に力点がおかれていた。
 その中で教育、とりわけ家庭における教育の大切さもまた憲法に記載さるべき項目であることの指摘が希薄になっていたことへの反省である。
 
◆現行憲法の“落とし穴”
 現憲法は家庭における教育についての規定を欠いている。長い引用は避けるが、ドイツ連邦共和国基本法には「子供の育成および教育は、両親の自然的権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である」(第六条)とある。
 共産党が支配する中華人民共和国の憲法にいたっては「父母は、未成年の子女を扶養し教育する義務を有し、成年子女は、父母を扶養し扶助する義務を有する」(第四九条)として、双方向での扶養義務を課している。
 しかし、わが国憲法は第二六条二項で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」とあるに過ぎず、教育内容や方法をだれがいかに決めるかについて明確に定められていない。
 憲法制定時の論議が「家庭教育」よりも「家族制度」の存廃や「両性の合意による婚姻」論議にエネルギーが割かれた経緯があるにせよ、その後の長い期間の思考停止は知的怠慢と後世の人々に指弾されても抗弁できないだろう。
 もちろん、憲法に書かれていれば、それで済むというものではない。また「改憲」というと第九条をめぐって六〇年安保のような国論を二分する騒動になるだろう。
 しかし冒頭の橋本首相施政方針のような内容を想定しつつ、ドイツ基本法にみられる明確な表現の家庭教育条項を盛り込むことも同時に大切なことではないだろうか。
 こうした見地からみると、吉田和男京大教授のように「求められるのはドイツ基本法などにみられる『家族』の規定である」(「憲法改正論」)など、ようやく家庭における教育規定の憲法上の必要性に着目する論考が出てきたのは歓迎すべき趨勢である。日本の将来に思いを馳せるなら、それはむしろ今こそ必要な知的義務と考えたいのである。


 
 
 
 
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