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1997/02/11 産経新聞朝刊
【教科書が教えない歴史】(223)日本国憲法(7)
 
 GHQの指示を受けて、日本政府は一九四五年(昭和二十年)十月、明治憲法の改正について検討を始めました。元東京帝国大学教授の美濃部達吉=写真=は、幣原内閣が設けた憲法問題調査委員会の顧問になります。美濃部は明治憲法の形成についてどのような態度をとったのでしょうか。
 美濃部は、十年前の一九三五年(昭和十年)、自己の憲法学説(天皇機関説)に対して、厳しい批判を受け、貴族院議員を辞めさせられた人です。美濃部はその著書の中で、天皇を国家の機関であると位置づけて、明治憲法をできるかぎり立憲主義に合うよう解釈してみせたのでしたが、これを「反逆学説」とまで言われて、激しく攻撃されたのでした。
 美濃部はこのような迫害ののちも、その信念を変えることはありませんでした。その美濃部は昭和二十年、明治憲法の改正のための調査委員会で、最小限の改正にとどめることを強硬に主張しました。
 美濃部の考えは「最近の十数年の間、国政が民主主義に反して行われた原因としては、いろいろの点をあげることができるが、それはどれも憲法の正文(せいぶん)(解釈や注釈でないもとの文)に基づいたものではなかった」ということでした。したがって「いわゆる憲法の民主主義化を実現するために、形式的な憲法の条文の改正をすることは、必ずしも絶対の必要はない」というのです。
 「現在の憲法の条文の下においても、法令の改正およびその運用により民主主義化を実現することは十分可能である。今日の逼迫(ひっぱく)した非常事態の下において、急速に憲法の改正を行うことは適切ではない」と論じました。
 憲法問題調査委員会の委員の一人であった東京帝大教授、宮沢俊義も、昭和二十年秋ごろには、美濃部と同じように憲法改正について慎重な意見を述べていました。
 例えば十月九日の毎日新聞紙上にこう書いています。
 「現在のわが憲法典は民主的傾向と相いれぬものではない。わが憲法は弾力性を持っている。この憲法における立憲主義の実現を妨げた障害の排除ということは、憲法の条項の改正を待たずとも、相当な範囲において可能だ」
 ところが、翌昭和二十一年二月、マッカーサーがみずから憲法改正草案を作って日本政府に示したとき、宮沢はそれまでの態度を一変させてマッカーサー草案に賛同しました。しかし、美濃部はその態度を変えることはなかったのです。
 美濃部によれば、改正案のように、天皇をただの象徴にする制度は「わが国体を根底から変革するもので、わが国民の歴史的信念をくつがえし国家の統一を破壊するもの」でした。美濃部は国家の歴史的伝統こそが憲法の基礎として重要なものである、と考えたのです。
 美濃部はマッカーサー草案が提示される少し前の二十一年一月に枢密院(すうみついん)の枢密顧問官に任命されました。枢密院というのは、天皇の諮問(しもん)にこたえて重要な事項を審議するところです。
 四月から枢密院が政府の憲法改正案を審議したとき、美濃部はただ一人、改正案に反対しました。六月八日の採決のとき、鈴木貫太郎議長が賛成者の起立を求めますと美濃部だけがじっとうつむいて座ったままであったとのことです。
 その後、帝国議会で可決された改正案は十月に再び枢密院で審議されました。このときも美濃部は欠席して議決に加わらず、改正案への不同意を最後まで貫いたのでした。(弁護士 中島繁樹=自由主義史観研究会会員)


 
 
 
 
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