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1997/02/08 産経新聞朝刊
【教科書が教えない歴史】(222)日本国憲法(6)
 
 明治憲法は、国民の目の届かないところで秘密に作られたものであると非難されることがあります。これはアメリカ憲法の例にならっただけですが、それでは、日本国憲法はどうだったのでしょうか。本当に国民に公開され、国民の自由な討議のもとに作られたのでしょうか。
 マッカーサー草案をもとに作られた日本国憲法草案は、一九四六年(昭和二十一年)六月二十日、第九十帝国議会に提出されました。
 その翌日、連合国軍総司令部最高司令官マッカーサーは、次のような声明を発表します。「この憲法草案は、日本国民の自由な意思によって採択されるべきである。したがって、これを草案どおり採択するか、修正を加えたり否決したりするかは、国民の代表である議員が自由に決めることができる」
 しかし、実際には議会での審議には厳しい制約がありました。というのは、審議内容は毎日英文に訳されて、総司令部に報告されていたからです。つまり、常に総司令部の監視下におかれていたわけで、総司令部の了解なしにはどのような修正もできませんでした。
 とくに注目されるのは、芦田均=写真=を委員長とする衆議院の憲法改正小委員会(芦田小委員会)における審議です。重要な審議はここで集中的に行われたのですが、会議は秘密会とされ、その速記録もずっと非公開とされてきました。この小委員会のメンバーであった大島多蔵は、後にこう語っています。
 「記録は一応、速記者二人がとっていたようだが、しばしばストップがかかった。会議の内容が英訳され、逐一、GHQに報告されていたからだ。このため各議員が本音を述べたときは、大半『速記中止』だった」(平成7年9月30日付産経新聞)
 確かに本会議は公開されていました。しかし、最も重要な審議がなされた芦田小委員会は秘密会とされ、審議内容を知っていたのは、国民でなく総司令部でした。しかも日本国憲法は明治憲法と違って、主権者である国民が制定したものであると前文で述べています。にもかかわらず、国民は平成七年、速記録が初めて公開されるまで、半世紀もの間、審議内容を知らされていなかったわけです。
 また、議会での修正も決して自由ではありませんでした。というのは、わが国政府は先に総司令部のホイットニー民政局長から「改正案の字句の修正は認めるけれども、憲法の原則や根本的な部分については、修正は認めない」と申し渡されていたからです。
 ですから、議会で修正された部分は第九条一、二項への加筆(芦田修正と呼ばれ、特に二項に「前項の目的を達するため」と加筆されたことが、自衛隊合憲論の一つの有力な根拠とされています)や、第二五条の生存権など、ごく限られていました。
 逆に総司令部の要求に基づいて修正させられた箇所もありました。例えば、憲法前文と第一条に「主権在民」を明記したこと、第一五条で公務員の普通選挙を保障したこと、さらに第六六条に内閣総理大臣やその他の国務大臣は文民でなければならないと定めたことなどがそれです。
 このように、日本国憲法も重要な審議は国民に非公開とされました。そのうえ、総司令部の厳しい監視のもとにおかれていたのです。二つの憲法のうち、どちらが日本国民の自由な意思を反映していたかは、もはや明らかでしょう。
 この憲法はその後、衆議院と貴族院で可決され、天皇の裁可を経て、昭和二十一年十一月三日に公布されました。


 
 
 
 
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