1997/02/03 産経新聞朝刊
【教科書が教えない歴史】(217)日本国憲法(1)
一九四六年(昭和二十一年)十一月三日の明治節(明治天皇の誕生日)の日、百三条からなる日本国憲法が公布され、半年後の翌年五月三日から施行されました。今年は施行からちょうど五十年目に当たります。
日本国憲法は形式的には明治憲法を改正したのですが、実際には明治憲法とは別の新憲法でした。このような新憲法が制定された背景には、どのような事情があったのでしょうか。
一九四五年七月二十六日、米英中の連合国は「全日本国軍隊の無条件降伏」を求めるとともに、数項目にわたる降伏条件を示したポツダム宣言を発表しました。しかし、その中に新憲法の制定は含まれていませんでした。
実際、宣言の起草者である元駐日大使グルーらは、起草当時、戦後の対日処理政策を実現するためには、憲法の部分的な改正は必要であるが、「新しく憲法を制定するというような根本的、全面的な憲法の改正は考えられていなかった」と述べています。
このように、新憲法の制定はポツダム宣言に基づくものとはいえません。では、当時のわが国の指導者たちはどう考えていたのでしょうか。八月十四日、日本はポツダム宣言を受け入れ、翌十五日には「終戦の詔書(しょうしょ)」が出されて、大東亜戦争(太平洋戦争)は終わりました。
その直後に成立した東久迩宮(ひがしくにのみや)稔彦(なるひこ)内閣は、明治憲法を改正しなくとも、それを健全に運用することでポツダム宣言の要請に十分応えることができると認識していました。例えば、宣言の十項に「日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうがい)を除去すべし」とあるのだから、連合国は当然、明治憲法下のわが国に「民主主義的傾向」が存在したことを認めている。従って憲法を改正する必要はないと考えました。つまり、一時的な軍国主義政治を改めれば、宣言が求める民主化の達成に十分対応できると判断したのです。
十月に東久迩宮首相の後をついだ幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相も、「改正の必要は認めない」と述べたといいます。やはり、選挙法などいくつかの法律を改正すれば、自由主義化・民主化は十分に達成できるという意見でした。
幣原内閣のときに設置された憲法問題調査委員会は、将来改正の必要がある場合に備え、学問的な立場から問題を調査していく機関であり、改正を前提としたものではありませんでした。委員会の名称に「改正」の文字が入っていないことがそれを示しています。調査委員会の顧問であった美濃部達吉(元東京帝大教授)や、その弟子で委員の宮沢俊義(東京帝大教授)も、憲法改正に消極的でした。
このように、国内では新憲法はおろか明治憲法の改正にさえ消極的な意見が大勢を占めていました。
では、なぜ新憲法が作られたのでしょう。それは、アメリカを中心とする連合国軍総司令部(GHQ)の意向によるものでした。
GHQはポツダム宣言に反し、当初から占領政策の大きな柱として新憲法の制定を決定していたのです。しかも「日本の統治体制の改革」という占領政策の基本方針となった文書の中には、わが国があたかも自らの意思で「憲法の改正または憲法の起草をなし、採択」したかのように仕向けること、と明示されていました。
こうしてわが国は新憲法の制定を余儀なくされたのです。これから日本国憲法を十七回にわたり取り上げます。
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