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1993/11/19 産経新聞朝刊
【沈黙の大国】(209)憲法への視角(4)“立ち木トラスト”
 
 国際貢献体制の制約要因となっている九条を中心に、憲法をどうとらえるべきか考えてきた。憲法をめぐる議論は、九条問題にとどまるものではない。憲法は第三章で国民の権利と義務を定めているが、「権利偏重ではないか」という指摘もある。個人の権利と公共の福祉のぶつかりあいの現実を追った。
 
1本1500円で所有権
 高倍率の双眼鏡をのぞくと、ミズナラやカラマツなど山一面の樹木に小さな札がかかっている。かろうじて、書き込まれた名前が読める。なかには「アメリカ合衆国ハワイ州・・・」などと外国人の住所氏名も見える。
 双眼鏡で必死に立ち木の名札を読み取っているのは、日本鉄道建設公団北陸新幹線建設局の工事関係者だ。一帯に「立ち入り禁止」の札が立てられているので、なかに入れない。
 「確認できただけで三百本ほどあります。とにかく、この全員のご理解をいただくべく、ひたすら努力するしかありません」と、同社新幹線部の岡崎準・新幹線第一課長。工事反対派の新戦術「立ち木トラスト」に、ほとほと手を焼いているのである。
 北陸新幹線は、平成十年の長野五輪をにらみ、九年秋の完成を目指している。そのため、今年中には用地の買収をすませ、本格工事に入りたいとしている。
 ところが、一昨年十二月、通過ルートの軽井沢で、新幹線による環境破壊を阻止するとして、この運動が始まった。
 有名作曲家などが所有している土地約五万平方メートルが、その拠点だ。五百本の立ち木を五百人に一本千五百円で売り、所有者の名札をかけている。立木法(立木に関する法律=明治四十三年施行)により、土地の所有権とは別に立ち木の所有権も認められている。これを“活用”して、強制収用にストップをかける戦術だ。
 「以前は一人が一坪を取得する一坪運動が主流でしたが、これだけ土地の値段が上がると、こづかい程度で気軽に参加するわけにもいかない。そこで、立木法という大昔の法律に目をつけたんです」というのは、軽井沢町議で「北陸新幹線反対立ち木トラスト」の代表世話人をつとめる岩田薫氏だ。この八月には「立ち木トラスト全国ネットワーク」を結成、その事務局長をつとめ、全国十四カ所で道路や公園などの建設反対運動を展開している。
 「北欧の環境庁高官も視察に来て賛同し、参加してくれました。名札を入れ替えれば簡単に立ち木の所有者が替えられるので、無限連鎖式に反対運動を引き延ばすことが可能です」と、岩田氏は戦術の一端を披露する。
 もともとこの手法は、三年前にゴルフ場開発を阻止するために始められたもので、現在、全国約百二十カ所のゴルフ場がストップをかけられている。
 
◆一坪運動の残したもの
 従来型の一坪運動にも、新戦術があらわれた。一坪の土地を分筆して数百人で共同登記する方法だ。それで工事が止まった例が、東京の地下鉄半蔵門線・半蔵門−九段下間である。
 帝都高速度交通営団がこの地域の住民に説明会を開いたのは、建設大臣から工事施工認可を受けた翌年の昭和四十八年だった。渋谷―半蔵門間は五十七年に営業を開始したが、半蔵門−九段下−三越前間が開通したのは、七年あとの平成元年になってからである。
 反対運動の拠点となった「一坪」には、北海道から九州の離島まで約三百人の“地主”が登記した。結局、都収容委員会の裁決により強制的に地下使用が認められたのだが、その補償金の支払いが大変だった。
 昭和六十二年三月から六月まで、営団用地部の職員六十人が二人ずつ三十組のチームをつくって全国に飛び、一人当たり百八十二円から三千八十八円の補償金を手渡して歩いたのである。
 「およそ半数の人が受け取り、残りは拒否されました。その場合でも補償金を供託すればいいのですが、意思だけははっきり確認してくる必要がありました。かなり活動的な人の場合は、弁護士同伴で出向きました。補償金の額はばかばかしいほど少額ですが、それに費やした労力と経費は膨大なものでした」
 営団の堀井昌幸・管財第一課長はこう振り返る。
 問題の一坪を提供し、反対運動の中心に立った竹田靖子さんは、その後、社会党から千代田区議選に立候補し当選した。
 「都と営団とゼネコンが三位一体となり、公共性を錦の御旗に住民の頭越しで計画を立て、住民には最終段階でしか明らかにされない。あのままでは押し切られそうだったので、手段として私の母親の土地を利用したのです」(竹田さん)
 しかし、この一坪運動は皮肉な結果も生んだ。竹田さんはいずれ返してもらう約束で分筆したのだが、百人近くがまだ返してくれないのだ。当事者が亡くなって、相続者には当初の目的が知らされていないケースもある。
 営団側の代理人をつとめ、立ち木トラストでも鉄建公団の相談に乗る山内喜明弁護士はこう漏らす。
 「公共の福祉と私的権利の調和をはかるのが民主主義でしょう。公共と個のぶつかり合いを長く見てきましたが、両者の揺れ方はますます激しくなっている。この揺れを少なくするのが政治の役目ではないかという気がします」
 
【日本国憲法】
〈第三章 国民の権利及び義務〉
第一二条【自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止】
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
 
第一三条【個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉】
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
 
第二九条【財産権】
 (1)財産権は、これを侵してはならない。
 (2)財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
 (3)私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。


 
 
 
 
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