1996/09/01 読売新聞朝刊
[社説]憲法公布50年 法と現実のズレを正そう
◆政府も「実は困る」私学補助
「憲法八九条の問題は、確かに率直に言って実は困る規定であります。憲法改正論を考えます場合に、一番最初に出てくるのが八九条であると言ってもいいくらいに八九条は問題だと私も思います。
・・・ごく事務的に考えて、つまり政治的でなしに考えて、八九条のような規定はやはり問題点の一つであろうと正直に言って、そう思います」
一九七一年三月三日、参院予算委員会。高辻正己・内閣法制局長官の答弁である。憲法八九条と私学助成との関係についての質問に答えたものだった。
憲法八九条には、「公金その他の公の財産は、・・・公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」と規定されている。
ところが、国はその「公の支配に属しない」私大、私立学校に毎年「公金」による補助を出している。九六年度政府予算では三千五百億円以上の私学助成金が計上されている。このほかにも地方公共団体による私学への「公金」支出がある。
だが、「政府は憲法を厳格に守って、私学補助を中止せよ」という声はどこからも上がらない。日本の教育界の現実の中で私学が占める意義と重要性は、だれもがわかっているからだ。
こうした現実にもかかわらず、政府の法解釈の最高責任者である内閣法制局長官さえもが「率直に言って実は困る」といわなければならないような憲法の規定を放置しておくというのは、はたして法治国家といえるだろうか。
このこと一つを見るだけでも、現行憲法の一字一句も変えてはならないとする「護憲」とは、実は、憲法尊重の精神から最も遠い主張であることがわかる。
八九条を論議することは、単に私学と公金支出をめぐる問題にとどまらず、広く今後の日本の在り方を考えることにも通じるだろう。
たとえば、最近、財政改革の観点から、国立大学の即時民営化と私学補助の廃止を提唱している学者グループがある。
また、私学補助だけではなく、発展途上国で「慈善」的あるいは「博愛」的な活動を続ける民間活動団体(NGO)に対する政府補助も、厳密にいえば八九条違反になる、との指摘もある。
教育問題に限定された議論ではなく、経済、社会の将来展望、さらには国際的な視野に立った議論が必要となる。
政府の“違憲行為”は八九条に限られない。文化勲章受章者への年金支給も、「法の下の平等」を規定している一四条を素直に読めば、憲法違反になる。
一四条三項には、「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない」と規定されている。文化勲章に伴う国からの年金は、ごく常識的に考えて、経済的特権といえるだろう。
政府は、あからさまな憲法違反になるのを避けるため、文化功労者に年金を支給する制度を作り、その文化功労者に選ばれた人たちの中から文化勲章受章者を選ぶ形式をとっている。
しかし、文化功労者に選ばれること自体が「栄典」であるということも、ごく常識的な受け止め方だろう。だから問題の本質は変わらない。
が、国民の大多数は、文化功労者や文化勲章受章者に一定の経済的特権が伴うことも、むしろ当然と見ている。「違憲」「合憲」問題は、専門家の間だけの論議にとどまっている。
法治国家なら、憲法の規定を国民合意に沿って整えるための議論をし、きちんとけじめをつけるのが筋ではないか。
◆放置すれば憲法軽視を招く
読売憲法改正試案では、現代日本の実情からズレた八九条の「公の支配に属しない慈善、教育・・・」の部分を削除した。
一四条三項については、「ただし、法律で定める相当な年金その他の経済的利益の付与は、この限りではない」との一文を付け加えている。
「違憲」か「合憲」かという問題が、専門家の論議にとどまらず、政治的、社会的な解釈論争となってきたのが、憲法九条(戦争放棄、戦力及び交戦権の否認)と防衛力・自衛隊の関係だ。
この問題では、政府の見解も、必ずしも一貫していたわけではない。
憲法制定当時の吉田茂首相は、自衛権そのものを否定しているかのような答弁をしたこともある。
自衛隊の前身である保安隊設立当時は、九条二項が禁じている「戦力」とは、「近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を具(そな)えるもの」としていた。
いまでは、「わが国を防衛するための必要最小限度の実力組織」は合憲という統一見解になっている。
これに対し、社会党を中心とする“革新”勢力は、一貫して自衛隊を違憲だとしてきた。現行九条は、そうも読めるような書き方になっているのが一因だ。
その社会党=社民党も、二年前からは合憲説に転じ、政治の世界では、事実上、自衛隊に関する憲法解釈が確定した。もっとも、国民の多数は、ずっと以前から合憲とみなしていた。
だが、憲法学者の世界では今でも自衛隊違憲説が多数派という。
現行の九条を字句通りに読めば違憲という解釈しかできないという立場なら、そうした憲法学者たちこそ、解釈の紛れが生じないような九条改正案文を提唱すべきではないか。
憲法と現実のズレを放置すれば、つまりは憲法の規定はどうでもいいということになる。それでは、憲法理念尊重の精神を損なう危険を招きかねない。
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