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1996/03/31 読売新聞朝刊
[明日への条件―日本総点検]第2部憲法再考(10)環境権の流れ(連載)
 
◆個別の対応では限界
 冷たい風が舞う島根県・松江城前広場。二月二十七日夕、医師Fさん(71)は、約千人の県民を前に、「住民の意見を聞かないままの干拓は許さない」と声を震わせた。
 この日、同県議会は、中海・本庄工区千七百ヘクタールの干拓の是非を周辺住民に問うべきだとする、住民投票条例案を否決した。Fさんら住民グループが同県に直接請求していたものだ。
 八年前の五月、「シジミを守れ」という県民挙げての環境保全運動は、七百二十億円を投じた国の巨大プロジェクト「中海・宍道湖干拓、淡水化事業」のうち、淡水化事業を凍結に追い込んだ。
 この時には県民とともに淡水化に反対した県だが、今月二十八日、国との協議で中断していた干拓事業については、「水質悪化の恐れはない」として再開を正式に決めた。農地や牧場、農業試験研修施設などを整備し、地域振興の起爆剤とするというのだ。
 しかし、地元経済界が干拓派に回るなど反対運動はあの時ほど盛り上がっていない。反対理由が単純だった淡水化に比べ、今度は、県の財政などの問題もからむほか、環境をめぐっても「中海の水質汚染」「地下水の塩水化」「景観の悪化」など論点が多岐にわたり、複雑になっているためだといわれる。
 Fさんは言う。「私たちも他の地域の環境保全運動も、これまでは水質や景観、日照などの問題に個別に対応してきた。今は環境をめぐる権利を広くまとめる考え方が必要な時代だ」
 日弁連が一九七〇年に環境権を提唱してから二十六年。憲法一三条の幸福追求権や二五条の生存権に基づく、などの学説はあるものの、「環境権」という明確な形ではまだ法的には認知されていない。大阪空港騒音訴訟などの公害裁判でも、「一三条や二五条は理念に過ぎない」「権利の内容や範囲が不明確」などと退けられてきた。
 公害反対運動に原点を持つ日本の環境運動は、国や企業とは対立するケースが多かった。先鋭化したグループが、公共性を無視した「環境絶対主義」を主張することもあった。だが、新しい動きも芽生えている。
 二月七日、大阪市内のビルの一室で開かれた、財団法人「公害地域再生センター」の設立準備会。大気汚染をめぐる十七年に及ぶ裁判の末、昨年三月に企業側と和解した「西淀川公害訴訟」の原告らが、今後は、企業や国とも協力して公害指定地域の環境再生を目指そうと誓い合った。
 準備会代表のMさん(60)は語る。「美しい山や海と同じように、暮らしの場の環境も大切。住民やそこで働く人、企業、そして行政が一体となって地域の環境をよくしていく。そんな活動を実践することで、環境権も守られる」
 世界では、環境権を掲げる憲法がもう珍しくない。大半は理念を表明したもので、裁判の直接の根拠とすることまでは認めていないものの、立法や政策にその考え方を生かしている。例えばスペイン。昨年十一月には、憲法の環境条項に基づいて刑法を改正、環境を汚染した企業を不当に優遇した公務員に対する禁固刑などが新設された。
 地球の温暖化防止にとっても大事な広大な熱帯雨林を抱えるブラジルのように、極めて詳細に環境権を定めた憲法もある。
 「アマゾンなどの開発は環境保存と両立するものに限る」「行政当局は、環境を損なう恐れがある事業の環境影響調査を求める義務がある」
 九四年七月、サンパウロ連邦地裁はこれらの規定を根拠に、アルミ製造会社が森林地帯に計画していたダムの建設を差し止めた。
 茨城大の内薗嘉男教授(64)は「環境権は、地球環境が問題となる時代となってますます重要だ。現行憲法が想定していなかったものを、その枠内でとらえるのは無理がある。環境権を憲法に位置づければ、立法政策や市民運動の根拠となり、裁判所を説得できるようにもなる」と指摘する。
 全世界が協力して美しい地球を守る時代に、憲法が環境保全に沈黙することはもう許されない。
(社会部 木村 透)
 
◇読売憲法改正試案二八条
(環境権)
 〈1〉何人も、良好な環境を享受する権利を有し、その保全に努める義務を有する。
 〈2〉国は、良好な環境の保全に努めなければならない。


 
 
 
 
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