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1996/03/23 読売新聞朝刊
[明日への条件―日本総点検]第2部憲法再考(4)公益と私権(連載)
 
◆強制もエゴも超えて
〈もうええから、はよ、逃げや〉
 叫ぶ声が今も耳に響く。むき出しの地肌にまだ黒くすすけた跡が残る六甲の山すそ、神戸市兵庫区松本地区。悪夢の阪神大震災で、倒壊家屋が次々と出火し、赤い炎が街をなめ尽くした。自宅の下敷きになった父親は、助け出そうとする子供らに別れを告げた。
 その現場に立ち会った獣医、中島克元さん(40)は、涙を浮かべて思いを語る。「地震で命拾いした多くの人が直後の火災で亡くなった。あんな悲しい思いは二度としたくない。きっと街を再生させてみせる」
 中島さんは、「松本地区まちづくり協議会」会長。やはり自宅が類焼した。
 震災後、自治体が進める復興計画は、土地区画整理事業などが柱だ。だが、個人の所有地を削る「減歩」などに住民が反発。被災各地では「財産権の保障」と「公共性の優先」という憲法上の要請が衝突している。
 「先祖代々の土地を取られて喜ぶ人はいない。でもたった一軒の反対で公共事業が進まず、みんなが困ると、それは『利己主義』になる」と中島さん。
 このため住民を説得して行政との対話が続き、住民側の意向を反映したまちづくり案が生まれた。
 兵庫県芦屋市西部地区の区画整理では、戦災復興に続く二度目の減歩をめぐり住民と行政の対立が深刻だ。「芦屋西部地区住民の会」の森圭一会長(48)は「住民の多くが減歩なしのまちづくりを求めている。市の計画は道路や公園造りに国の助成を得ることを優先している。公共の福祉の意味を問い直したい」と強硬だ。
 神戸市でも区画整理に住民の合意を得るのは難航、今月十四日には心労からか、復興事業担当助役が自殺する悲劇が起きている。
 幻のマッカーサー道路と呼ばれる東京の都道・環状二号線。総延長十三・九キロのうち、未開通の港区・新橋―虎ノ門間一・三五キロは、一九四六年に都市計画決定されてから五十年間も放置されてきた。立ち退きを嫌う住民の強い反対運動が続いたためだ。この地域だけには低層住宅が軒を連ね、都心の高層ビル街の谷間となっている。
 その地元住民が昨年十月、道路建設推進に方向転換した。「環状2号廃案促進委員会」の松田成政会長(64)が打ち明ける。
 「阪神大震災の被災地に行って足がすくんだ。同じような災害にあったらこの地域は風の通り道となって焼け野原になる。いま行政には、できるだけ多くの住民が残れる計画にして欲しいと求めている」
 紀伊水道に注ぐ那賀川の最上流部、徳島県木頭村に予定されている細(ほそ)川内(ごうち)ダムも、反対運動で三十年近く、計画が宙に浮いている。
 約八百戸の村のうち、水没するのは約三十戸。村内は、村当局をはじめとする反対派と賛成派に割れる一方で、下流の二市二町は建設促進を訴えている。
 水没予定地に住む「細川内ダム対策協議会」会長、松本利夫さん(48)は「村のためなら地元を離れても構わない」と言う。
 「しかし今は、一番の被害者の私たちそっちのけで外野が『反対、賛成』を叫ぶばかり。早く結論が欲しい」といらだちをみせる。
 神戸大の阿部泰隆教授(53)(行政法)によると、戦後、「土地所有権は絶対」という権利意識の高まりがミニ開発をもたらし、区画整理事業などはなかなか進まなかった。「財産権の内容は公共の福祉に適合するように定めるとした憲法二九条の精神が置き去りにされてきた結果だ」という。
 一方、国など事業者側の代理人を多く務めた山内喜明弁護士(53)も「行政側が何でも強制できる時代ではない。長期的視野でどういう事業が必要なのか、もっと丁寧に住民と対話すべきだ」と反省を語る。
 国民の間でさまざまな利害が交錯する現代。まちづくりには、公共性と私的権利の調和が欠かせない。行政の独善も住民エゴも拒否する憲法の精神を現実にどう生かすか。成熟した社会の切実な課題だ。(大阪社会部 中浜宏章)
 
〈権利乱用の禁止〉
 憲法一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを乱用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。


 
 
 
 
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