2001/07/02 毎日新聞朝刊
[社説]考えよう憲法/6 生存権 国にどこまで関与させるか
◇自由権と衝突するジレンマ
戦後の日本が目指したのは「福祉国家の建設」だった。そのよりどころとなったのが憲法25条の生存権規定である。
現行憲法を作るとき、連合国軍総司令部(GHQ)案に基づく政府草案に生存権規定はなかった。1946年から始まった衆院憲法改正特別委員会で、社会党が「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という25条1項の規定を修正案として提案、「幸福追求権があるから不必要」という反論もあったが、原案通り盛り込まれた。
そこには、敗戦のどん底からはい上がり、せめて最低限の生活は保障されたい、という当時の日本人の願いが込められていた。
19世紀の近代国家が憲法に盛り込んだ基本的人権の柱は、思想や表現の自由などを保障する「自由権」(国家からの自由)だった。アメリカ合衆国憲法などには、今日でも生存権規定はない。国家は市民の安全と自由を守る役割さえ果たせば十分で、不当に個人の領域に入り込まない「自由国家」が望ましいという考えからだ。
ところが、資本主義経済の発展は、失業や貧困などの社会問題を発生させ、資本家と労働者の激しい階級対立を生んだ。さらに国家が乗り出さなければ、社会資本の整備も進まないという事態に陥った。ここから国家による経済活動、国民生活への介入を認める「福祉国家」の考えが広がった。
19年に制定されたドイツのワイマール憲法は151条で「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない」と明記した。そこには、自由な市場に任せるだけでは人間の尊厳は保てないという考えが色濃く反映されている。
さらに29年の世界恐慌以後、貧困層に対する制度的救済を求める運動が世界的に広がり、自由権を享受するためにも、まず生存権が保障されなければならないという積極自由主義の考えが欧米で幅広く支持されるようになる。その結果、福祉制度の整備を進める国が相次いだ。日本国憲法の生存権規定は、こうした20世紀前半の欧米の社会思想、運動を反映したものだった。
◇国の関与認めた社会権
一方、福祉の発展には、戦争の影があったことも見ておかなければならない。世界で最初の福祉制度といわれるドイツの社会保険(強制加入)も、ドイツを統一したビスマルクが、より強大な軍事国家を作る過程で導入したものだった。そこには国家は国民の最低限の生活を保障する代わりに、国民は有事の時に国家の動員に応じるという発想があった。日本でも、労働者年金保険法や国民健康保険法などは、太平洋戦争突入を目前に国家総動員関連法を整備する一環として制定された。
生存権の保障は、国家権力の集中と表裏一体のものだったのだ。だから、社会福祉は国の統制による「措置制度」というやり方が長い間中心に置かれてきた。生活保護も社会福祉施設への入所も国が一方的に決めてきた。
だが、戦後の経済発展と国際化は「国家による救済」の意味を揺さぶっている。
国民の所得水準は世界のトップクラスになって「福祉国家」の目標はほぼ達成されつつある。「健康で文化的な最低限度の生活」の緊急度は急速に下がっている。先進国が食うか食われるかの熾烈(しれつ)な戦いをした時代も過去のものとなり、国家が国民を動員する事態も現実味を失いつつある。
その結果、過度の福祉に対する見直しの声が上がり始めている。 一つは公的な救済に対する過度な依存が、国民の自立性、自発性を失わせているという意見だ。血縁、地縁による相互扶助の「美風」が失われたのも過度な福祉が原因だという声も出始めている。
さらに少子高齢化と経済の低迷、財政赤字で、従来のような福祉政策は限界に来ているという指摘もある。年金、保険の多くは民間にゆだね、国は困窮状態に陥った人々だけを救うセーフティーネットだけを受け持てばいいという意見などが典型だ。当然25条も見直すべきだという。
これに対し、所得の再配分と国民生活の最低限の保障こそ、21世紀の国家の最大の目的で、社会の安定、治安の基盤という考えも根強い。
◇問われる国家の存在意義
生存権規定が、生活保障、福祉の充実だけでなく、戦後のさまざまな生活防衛、市民権拡大の理論的根拠に使われてきたことも見落としてはならない。
例えば日照権や排ガス、騒音などの問題では、25条を根拠に国や自治体の対策を求め、訴訟も起こされてきた。憲法改正論議でしばしば取り上げられる「環境権」も生存権の延長で対応できるという意見もある。
一方「最低限の生活が脅かされる」という理由で規制緩和、自由化、立ち退きなどに反対する根拠にも使われるなど、生存権は実に広義に使われてきた。25条こそ日本の高コスト構造の元凶という指摘もある。
いま「戦後社会」の見直しが叫ばれている。規制でがんじがらめになって個性を発揮できない社会から「自立した個人が連帯する社会」を実現すべきだという主張が勢いを持っている。一方で将来の不安の解消も大きな課題になっている。どちらも生存権をどう解釈し、21世紀の社会設計の中に組み込んでいくべきかという問題に突き当たる。
生存権は「この国のかたち」に深くかかわっているのだ。
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