60万という数字は、机上の計算にすぎないかもしれない。だが、地球規模でひと、もの、かねが大量に移動するグローバリズムが21世紀の基調になるとすれば、「この国」を構成する「国民のかたち」が、大きく変わろうとしていることは否定できない。
移民は、異質な文化を持ち込む。日本人との間で混血も始まる。米国のような多民族国家になったら、「天皇を中心とした神の国」というような民族の特殊性に基づく一元的価値観はもう通用しないかもしれない。
昔からいる国民も、新しく来た人々も、国籍に関係なくすべて平等に包摂する普遍的な価値観が求められる。
日本国憲法第3章は「国民の権利及び義務」を規定している。「国民のかたち」が変わるなら、それに合わせて「国民の権利、義務」も変化すべきだという意見が出ても不思議ではない。
インドネシアに進出した日系企業の社員食堂ではイスラム教徒の社員のために豚肉を使わないメニューを用意する。それが、信教の自由を保障する具体的な形だ。
イスラム教徒の労働者が多数日本に来るようになったら、日本の社員食堂もコーランを唱えながら料理を作るイスラム教徒の調理師を雇うのが常識になる。均質な社会が崩れてくると、想像もしなかったような人権問題に直面することになるだろう。
「この国のかたち」と言い出したのは作家、司馬遼太郎氏である。衆参憲法調査会で「この国のかたち」が論点のひとつになっている。「憲法改正と密接につなげて理解されている」(民主党新緑風会・川橋幸子氏)というように、改憲論の立脚点となっている。
明治憲法によって日本は近代的な国民国家(ネーション・ステート)としての「かたち」を作り上げた。法の下に平等の「国民」がはじめて日本に誕生した、という司馬史観は、明快な形で新しい国民国家の「かたち」を描こうとするときに、格好のモデルになる。
だが、ネーションの語源はラテン語の「種族」、血によってつながった集団だ。明治憲法の描いた国家像は、ネーションの語源に近い、天皇を頂点とする単一民族国家である。朝鮮半島、台湾のひとびとまで「兄弟民族」という疑似的な血のつながりで一体化しようと試みた。
敗戦後、日本国憲法は、平和主義、民主主義、基本的人権の「憲法3原則」を、「国のかたち」の基礎に定めたが、単一民族国家であることは暗黙の前提だ。
基本的人権を定めた「国民の権利及び義務」(第10〜40条)は、だれを対象にしているのか。最初の6カ条の主語は「日本国民」「国民」である。例えば「基本的人権」は、すべての人類に対してではなく、「現在及び将来の国民」に対して保障されている(第11条)。
第16条以下は「何人も」と「国民」が混在しているが、基本的人権は、国家が自国民に対して保障するという基本的な姿勢がうかがえる。
ドイツ基本法と比べてみよう。基本法は1949年に制定された。日本国憲法第1章は「天皇」だが、基本法は「基本権」で始まる。第1条「人の尊厳」から第7条まで、主語は「人」だ。「ドイツ人」が主語になる条文は、第8条「集会の自由」からである。
普遍的な人権が、国民の権利義務に先行して置かれたのは、前年に国連が採択した世界人権宣言の影響だといわれている。
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