1994/10/30 毎日新聞朝刊
[新聞と戦争]/5 平和の中で 戦争放棄 理想に燃えた世論
不思議である。
新憲法制定前後の新聞に、戦争放棄に関する言説が極めて少ないのだ。天皇制に関する記事なり社説は目立って多いのに、である。
例えば毎日新聞の場合。天皇制を論じた社説は一九四五年十月に二本、十一月二本、十二月三本、四六年一月二本、二月は一本。つまり政府の憲法改正草案の出る前五カ月間に、十本もの社説が出ている。ところが戦争放棄については草案の発表された後の三月十日に見るだけである。なぜだろうか。
戦争放棄の規定が予想外だった、との見方がまずできよう。例えば江藤淳氏はその証拠に外務省文書「憲法草案ニ対スル内外ノ反響」(四六年三月十八日)をよく引用する。その中に「戦争放棄ナル奇異ナル規定」との表現がある。この外務省文書こそ当時の国民の気持ちを反映している、と同氏は言うのだ。新聞にしろ世論調査にしろ連合国軍総司令部(GHQ)の検閲下にあったのだから信用できない、として。
■武装なき大国へ
また草案が発表される前までは、もっぱら国民の関心は国体護持にあったのだから、話題が天皇制に集中するのは当たり前だ、とすることもできる。実際、その間に発表された各政党や民間団体の憲法改正試案は天皇制が中心だった。
しかしそれなら政府草案が明らかになったとき、論議が巻き起こってもよさそうなものだ。が、それすらない。「ない」のは江藤氏らの言うように検閲下で舌が凍りついていたから、と突き放すこともできよう。確かに「戦争放棄は一種のユートピアにすぎない」とした国会発言も新聞から削除を命じられた。新憲法の欠点を突いたような政治的発言はすべて掲載不許可だった。が、別の見方も成り立つと考える。
すなわち国民は半世紀にわたる戦争また戦争にうんざりしていて、平和を望むあまり戦争放棄を、なんの抵抗もなく受け入れたのではないか。というのも敗戦直後から「戦争放棄」という言葉こそ使われなかったものの、強国日本ではなく、平和日本を希求する社説が、次から次へと放たれるからである。
敗戦一週間後の八月二十一日、毎日新聞は「力の日本を築くことに失敗したわれわれは、今後平和の民としての営みに入るのである」と宣言した。ミズーリ号艦上の降伏調印式の翌九月三日「敗戦日本を世界最高の理想国家として再建する」と誓い、同七日「武装なき大国の可能性」と題した社説で「国民の精励によって生活も文化も道義も、世界のどの国民よりも高いとすれば、実に偉大なる大国と言わざるを得ない。武装なくして大国となる。これは決して不可能ではない」と主張した。
明けて四六年、同紙は年頭の社説で「すぐる幾年かの悪夢からさめ、その過去を過去として根こそぎに清算し、正義と平和に徹する武装なき大国家の建設にまい進する知性と勇気とを、日本国民は持ち得ないのであろうか」と記した。その後も「平和日本」「武装なき日本」が社説で繰り返し繰り返し述べられる。
朝日新聞も同様である。四五年八月二十八日の社説で「世界人類のし烈な平和への欲求は、もはや何国によっても否定し得ないものがある。武力主義はこの人類の世界的欲求と相いれない」と説いた。九月五日にも「すべてで敗れた日本は、再び戦争を考えるほど愚かものではない。精神に生きよう。文化に生きよう。学問に、宗教に、道義に生きよう。欧亜にまたがるかくのごとき大戦の惨禍を未来永ごう世界より絶滅するための一助言者として生き抜こう」と力説した。
だから戦争放棄が新憲法草案の中にこつ然と現れても「純正な意味においてまさに世界史的な快挙といえる」(毎日新聞)、「平和的日本国民の心情を厳粛に世界に対して表現したものといえよう」(朝日新聞)、「反動的な松本国務相案は一撃にしてふっとんだ」(読売新聞)と歓迎したのだった。
それを夢想的で、非現実的だと批判することはできる。この戦争放棄の第九条こそ、GHQが日本の主権を制限すべく押し付けたものだ、と弾劾することもできる。マッカーサー元帥は後の米議会の証言や回想録の中で、第九条を当時の幣原喜重郎首相の発案だと述べているが、真偽のほどは疑わしい。
しかし新聞は、戦争放棄を正面から受け入れた。それは決して被虐的に、ではない。朝日新聞が社説で「戦争放棄を、単純に敗戦国としての現状肯定と見るか、ないしはその中に世界平和への積極的意図を読み取るかが問題の分かれ目である」と指摘したように、世論は理想に向かってとにかく一歩前へ出ようという気迫に燃えていた。そのとき日本は、同様な精神をうたったフランス革命憲法や不戦条約をさらに乗り越えて、新しい世界に踏み出そうとしていた。自衛の戦争だの、正義の戦争などは、この世にあり得ないのだという、全く新しい国際概念を作り出そうとしていた、とも言える。
■次々と骨抜きに
だからこそ新憲法が提出された国会で、当時の吉田茂首相は「近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変しかり、大東亜戦争またしかりであります。・・・ゆえに(交戦権を)放棄することによって全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好国の先頭に立って、世界の平和確立に貢献する決意をまずこの憲法において表明したいと思うのであります」と演説、満場の拍手を浴びたのだった。それは日本政府の、国民の偽らざる気持ちだった、と思う。
が、この高く掲げられた理想は、冷戦の深まる中で、次々と骨抜きにされていく。真っ先につぶしにかかったのは、日本にその理想を“押し付けた”はずのマッカーサー元帥、その人であった。
<次回は「東京裁判」>(編集委員・鈴木健二)
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