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1948/05/03 毎日新聞朝刊
[社説]憲法は普及したか
 
 日本人の祝祭日はややともすればお祭り騒ぎに終るか、そうでなければ単なる休日として無反省にすぎてしまう。お祭りをしたり休養したり、あるいは買い出しに行くのも良いが、折角の祝祭日がただそれだけではいけない。長く残って行く祝祭日には民族的な、ないしは伝統的な深い意義がある。五月一日には勤労者の祝祭日たるメーデーを送り、今日はまた憲法実施の一周年を迎えたのだが、われわれは今後は祝祭日には必ずその祝祭日にふさわしい反省を持ちたいものだ。学校では過去においてもまた将来も式が行われて反省の機会が与えられるのだが、社会人は生活に追われて何のための祝祭日か眼中におかぬ人も決して少くない。きょうは祝祭日の中でも最も意義の深い憲法実施一周年記念日である。今朝などはさしづめ●分か一時間の時間をさいて憲法を読み直して見たいものだ。
 顧みるとこの一年間に新憲法にともなう国家機構や社会機構の大本はほとんど整備された。関係法律のうちでまだ実施されないものや、目下準備中のものも少しは残っているので、これらについては当局の速かなる努力をまたなくてはならない。しかし新憲法にともなう形式的な方面は、一年間に大体出来上ったということが出来るだろう。だが内容的には新憲法の精神はどの程度に理解され、どの程度に普及されただろうか。これらの点になると残念ながらまだスタートを切ったばかりといわざるを得ない。新憲法は民主主義の理想形体を規定しているのだから、日本全体がその真精神を体現するのはもちろん一朝にしてなる仕事ではない。民主主義の社会では新憲法は知識階級だけが知っておけば良いというようなものではない。その精神は全国民に普及徹底され、日常生活にまでしみ通って来なくてはならない。したがって憲法精神の普及徹底についてはもっともっと積極的な努力が払われねばならない。
 新憲法は戦争放棄その他ほとんど全ての項目において高遠なる理想をかかげている。前文に「日本国民は国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」とあるごとく理想は決してやすやすと達せられるものではない。世界をあげての冷い戦争のただ中において、われらは全ての武器を捨て、戦争を止めて平和なる文化国家の目標をかかげた。世界平和は人類の理想であるが日本は今や●でこの理想の●を世界に先だってあげている。理想を達成するまでにはおそらく幾多の障害があるだろうが、しかしそれでもこの理想は断じて間違いではない。従ってわれらは理想の平和な文化国家たるためにもう少し徹底した努力を払わねばなるまい。戦前の日本人の精力はおそらくその七、八割が軍国日本のためにささげつくされていた。敗戦後は大部分の精力がもっぱら食うために費されているようだが、食糧事情も少しは改善されたことではあるし、今や食うための精力が再び文化への精力に切り換えられねばならぬのだ。まだ文化方面の政府予算もはなはだ少いが、文化はもともと政府が起し得るものではない。国民の一人ひとりの精神の問題であろう。文化水準が高揚されて初めて、その上に文化国家としての政治も経済も産業も発達するであろう。
 次に考えねばならぬことは新憲法の根本的な思想の一つである個人の尊重の面である。民主主義といい、国民主義といい、根源的には個人の尊重にも帰せられるであろうが、個人が尊重されるためには人々ははっきりした意思と責任とを持たねばならない。長年の独裁的統治の結果、日本人は命令されることにのみなれて、個性を忘れ責任を軽んずる傾向がないとはいえない。個人個人は国家をどこに持って行くかについての明確なる意思と同時に、それに対する責任を持たなくてはならない。そのためには全ての国民は世界情勢なり国内情勢に常に関心を持ち、常に意見を持っている責任があるのだ。この点から過去一年の国民の言動を見るならばはたしてどうだろうか。はっきりした信念にもとづいて誤りなき言動をしたであろうか。附和雷同的に動いたことはなかったろうか。国民の足が色々な点で地について来たのも事実だが、その半面遺憾なことも少くなかった。
 今ここに二つの角度から反省を試みたのだが、新憲法の理想的文字を読み直す時われわれの深省しなくてはならぬ点は実に多い。

(日本財団注:●は新聞紙面のマイクロフィルムの判読が不可能な文字、あるいは文章)

 
 
 
 
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