発表せられた新憲法成文草案はわれらの早くより待望していた平仮名の口語体であった。辞書と解説がなくては一般にわからぬような憲法では、人民の憲法たる形式をもつものとはいい難い。国民学校卒業者は誰でもわかる憲法が理想であって、これで憲法草案は内容、形式ともに画期的な民主的なものとなった。しかもこの成文案が議会にさきだつ一ヶ月も前に、枢密院に附議するのをまたず発表されたことも、世論を十分にきかんとする民主的な考え方に出ているといえる。
成文案は先に発表されたものと根本的な点ではほとんど差がないのだが、その前文において日本国民は「国会において正当に選挙された代表者を通じて」行動し、また「国民の総意が至高なることを宣言し」さらに進んで「国政は国民の崇高な信託によるものであり、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行い、その利益は国民がこれをうける」と規定している。これらの文句は全く「人類普遍の原理」であって、この精神に反対し、或はこれをふみにじる者は、新憲法制定の前たると後たるを問わず、民主政治の反逆者であり、人民の敵だといっても過言ではない。
ところが人民大衆の飢餓をよそにして眼前にくりひろげられつつある政局の動向はどうだろうか。幣原内閣が居据わり工作に狂奔し、首相が進歩党総裁に就任するというとは、疑いもなく「至高なる国民の総意」を無視し、さらに「日本国民は国会において正当に選挙」せられざる代表者を通じて行動することになり、また幣原内閣は断じて「国民の崇高なる信託」をうけるものではない。幣原内閣の行動はまさしく民主政治への反逆であり、蹂躙であるにかかわらず、驚き入ったことにはその幣原首相がぬけぬけと「新憲法制定は自分が最適任」というのである。われらをしていわしむるならば民主的な内容をもつ新憲法は、是非とも民意にもとづく内閣と議会によって審議さるべきであり、幣原内閣こそは憲法改正の最不適任者、むしろ無資格者だと断ずるものである。
幣原首相はまた政界に安定勢力なきを理由にして政権を手放しえぬというが、首相のいう安定勢力とはいかなる意味だろうか。進歩党総裁となって九十余の代議士をにきり、さらに手をのばして自由党を切りくずし、諸派や無所属を抱きこんでえた結果が安定勢力では絶対にありえない。現内閣が手をひろげて烏合の衆をかき集めれば集めるほど「至高なる国民の総意」は裏切られ、罪悪は二重にも三重にも倍加し、しかも政界は闘争の坩堝と化す。内閣が居据わり工作に眼の色をかえている時に、米の供出は強権発動にもかかわらず僅かに六割六分五厘にすぎざることが報ぜられ、応急米は既に廃止され、最低配給量たる二合一勺は切りさげられんとしている。幣原内閣がこの惨憺たる大衆の辛苦をよそに、この上独善的な政権への我執をつづけるならば、どんな社会混乱が起るか深憂にたえない。折角ここまで進んできた無血革命を、一内閣の無謀なる策動によって闘争へつきおとすことは、大衆を苦しめるばかりで到底忍びうることではない。
眼のくらんだ幣原内閣はもはや何事も冷静な判断をなしえぬ状態にあるが、この際社会党、自由党、共産党その他の政治勢力は新憲法精神を蹂躙し、民主政治を冒涜する幣原内閣の即時打倒に、共同戦線を展開すべき時である。今や飢餓線にある人民大衆を前にして現内閣の存続は寸刻も許されない。幣原内閣は最近に至って自由党殊に鳩山総裁の叩きおとしに躍起の形で、つい最近まで自由党幹部だった●の如きその第一線にあるやに伝えられる。いやしくも一党の総裁たる大物が資格審査で選挙のすんだ今頃失格が云々されるというのは、不可思議なことで、これまた審査の手続に当った現内閣の手落ちではないか。政治は道徳なりと強調された時代すらあるが、この一事をみても現内閣は風上におけぬ醜悪さを持つものである。あれやこれやで自由党が岐路におかれんとする今日社会党の責任は実に重大である。幣原内閣も社会党の動向に最大の関心を持ち、自由党また社会党との政策協定を希望する等、社会党の行動は国民注視の焦点にあり、彼らこそ眼前のこの政界昏迷を切開する力をもつといわねばならない。社会党は敢然として幣原内閣打倒のイニシアティブをとるべきだ。
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