シンポジウム
「地域で生活している中で必要なもの」
《9月5日(木)10時30分〜12時》
コーディネーター |
萩原修(支援センターさの) |
シンポジスト |
トスカ(栃木県ソーシャルクラブ連合会) 矢板ひまわり共同作業所 佐野堀米地区ひまわり共同作業所 ハートピアきつれ川 前沢病院ディケア |
「地域で生活している中で必要とかんじているもの」
伊東俊勝
私は、一昨年の6月に、郷土、北海道の釧路から、社会復帰の目的で、当地喜連川町にある福祉授産施設ハートピアきつれ川に参りました。一年余を経て、障害者能力開発訓練生として環境整備科に所属し、ハートピアの入所生として個室を与えられております。
訓練生として訓練期間を過ぎれば、ハートピアの個室を退去しなければなりません。年齢は57才になり、現状は、就労については妄想もあって、余り積極的ではなく、まだ先の事は心配しなくても良いとのお話ですが、その日が来たら、帰る家のない私は、住まいに関し、お先まっ暗です。しかし着実にその日は近づいています。今の希望は、ハートピアのとなりにあるグループホームに入れないかという事です。今は満室です。なぜグループホームかといえば、食事の提供場所がハートピアにあるからなのです。もし、現在の私がそのまま退去の日を迎えたら、自炊の経験が4ヶ月しかない私は、栄養失調と飲料代オーバーで破産してしまうでしょう。前回の入院の轍を踏むことになりかねません。57才になり、結婚は絶望となった現在、生涯一人で暮していく事になります。考えが甘いでしょうが、料理作りの壁をどうするかが、最大の課題です。願わくば、最終的にアパート暮らしとすれば、中間過程としてハートピアの近くにあるグループホームに入居できたら良いと思っています。料理作りに自信がついた時点で、アパートに入居することです。
郷土の家族会の皆様のお世話で共同作業所ができ上がり、共に励ましあった貴重な人生経験となった40代の私が、来るべき60代は、住まいにも力点をおいた家族会の運動となりますように祈るものです。
海外ツアーに参加して
精神障害回復者が、地域社会にて、一般の人と共に生きてゆくことは、ほんとうに容易なことではありません。それは周囲の人たちの偏見や差別がその根底にあるからと思われます。
私は以前全精連の人や全家連の雄志7名で、ロサンゼルスに行ってきました。これはアメリカの精神障害者の人と交流を深め、お互いの親睦を高めようと、一週間の日程で出発しました。そして障害者同志の交流大会は、4日間の日程で行われ、ホテルの大会議室で行われました。オリエンテーション、開会前夜講演、分科会、全体会議が行われ、現地の障害者も多数参加し、熱心に聞きいり、盛んに意見などを述べていました。
精神障害者が海外に行くということは、本当に勇気のいることです。しかし、アメリカの障害者たちは、私たちを温かく迎えてくれて、ほんとうに嬉しくなりました。この「ふれあい」は一生忘れることはできません。
山崎紀俊 38歳
私が精神科の病院へ初めて行ったのは、大学三年、二十歳の時でした。一年間の入院の後復学し、足利から朝5時の電車でお茶の水の大学へ通学し入院の為同級生たちより一年遅れではありましたが、確かに辛い思いではありましたが卒業することができました。その後も入退院を何度かしましたが、38歳の今になって、やっと開き直ることができました。もちろんいい意味でです。若いころは、精神科の病院へ入院した事については、両親のことを恨んだりしましたが、今になってみれば、お父さん、お母さんありがとうと言う気持ちでいっぱいです。足利の友人達も、私のことを励ましてくれたり心配してくれたり、皆が、もちろん両親・親類・姉さんたち全てがいい時も悪い時も力になってくれました。本当に、今までの私の周りの協力してくれた人たちの事を思う時、私は涙が流れてやみません。ご家族の皆さん決して焦らないで下さい。必ず時間は皆の味方です。皆さん負けないで下さい。
自己PR(T.U)
私は平成8年8月頃に発病し、現在に至るまでに2回の入院経験があります。2回の入退院の後、現在の矢板地区ひまわり共同作業所に入所し、それから通所しはじめてから今年で4年目になります。途中僅かではありますが2回程社会復帰をしましたが、仕事のスタイルや勤務時間が不規則なこともあって、結局作業所に戻ることを選んでいます。やっぱり今の作業所が居心地が良く、とても落ち着きます。病気になってからは作業所、患者会を通じていろいろな方々と出会えたこともあって現在に至っては人間関係も充実しています。
今回のシンポジウムでは障害者の方にとって地或に何を求めるかを述べることになりましたが(当事者として)、普段から考えていいたことを発表すればよいのかなと思っております。表現することが下手な私ですが、宜しくお願いします。
|