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宮城県
ハートメッセージ
宮城県名取市家族会会長 沼田盛子
 
1 私が今関わっていること
   (1)名取市家族会  
会長  
3年目
 
役員
昭和52年以来
(2)宮城県精神障害者家族会連合会 監事 3年目
(3)ヘルスメンタル協会(名取病院が設置したグループホーム運営の役員)副会長
14. 5. 12 NPO法人に移行に伴い理事長
2 障害者との関わり
(1)主人と結婚後1年、2月に具合が悪くて帰郷した主人の弟が5月に暴れて手をつけられなくなり親戚中で春日療養所に連れて行き入院となった。
 当時夫は職業柄航海中で何もすることができず、私も手を貸すどころか逃げていた。
(2)夫の父は昭和48年9月30日死亡、そのとき退院させて左官見習いに入れたが1ケ月で退職入院して今日に至る。
(3)昭和52年夫の母が死亡。それに伴って家族会に加入し幹事として活動。
3 精神障害者への支援
(1)昭和63年名取市に友愛小規模作業所を設置
(2)平成4年8月31日精神障害者通所授産施設友愛作業所を設置
(3)通所者の高齢化に伴い通所定年の延長を働きかけ認められる
4 今後の課題
(1)名取市内居住者が入れるグループホームの設置
 現在は名取病院のグループホームが市内にあり、入居者は名取病院から送られる。グループホームの建物の借り主が名取病院だから。
課題:ほかの病院(名取市内)や名取市内居住者が入れるグループホームが市内に設置されるよう市当局、地域住民の協力を得ること。可能性としては借家がいちばんだが、地域住民の啓発が進んでいない。また確定した入居待機者数を把握していない。
(2)相談員としての活動の機会が多い
 NPO法人理事長として新聞に紹介されて以来、身近に精神障害者について話せる相手がいることがわかり、電話相談や面接相談がめっきり増えてきた。
(3)作業所の通所者の高齢化が進む一方、新規入所者がいない
 小規模作業所から授産施設に昇格し、通所者が30名になろうとする段階で入所希望者が減少し、現在ではほとんどいない。どのようにしたら通所者の交代が実現するが今後の課題である。
(4)親の姿を見て子供は育つ
 父と母が協力して障害者の世話をし、ほかの兄弟が素知らぬ顔をしているとき、子供の心に愛情が映し出され、教訓として心の支えになっていると感じられる。
 
秋田県
星の瞬きを見て
秋田県家族会「日の出会」 藤原左規夫
 
 わが子に襲いかかってきた病魔、本当にしぶとく、どうしようもなかった二十年前の日々、夜のとばりがおりてよっびで流れくるビートルズの曲、悲しくも切なく愛を求める施律に、いかほどか妻共々に涙したことか。
 疲れ切った心の乱舞、自分だけが生きている世界、親をも寄せ付けず、浪費、呆然、巷をさまよう、荒れる、家族を見失ったわが子、「いっそのこと一緒に」の思いに、いかほど恐れおののいたことか。
 救いを求め続けて数年、沢山の人々に迷惑をかけ、沢山の人々にお世話を頂き、やっと初めて入院。緑豊かな高原の哀愁、暮色迫る黄色の病院、そこに残されたわが子、振り返り振り返り、たたずんでは泣き続けた妻の姿が忘れられない。
 その後、例に漏れず、投薬自ら中断の入退院、当時予期された「陽性症状」、本格的な治療がさし迫っている。しかし、親の力だけでは「任意入院」はとても不可能。気を食わなければ、東京へ行く、山に行く、外国に行く、金をくれという状態が数年続く。その間、親戚の「二度は御免だ」のお断りの中で、入院の説得に難儀してくださる方を捜し求め、説得、説得に数時間。最後は私、兄弟、近しい従兄の肉親が群がって抑え、車に閉じこめて再入院、同じようにして再々度の入院。もう悲しみや哀れさも何もなく、ただ、ただ、入院させるだけで精一杯。よくやったものだ。
 今、私はささやかで小さな家族会に入り、役職の一端を担い続けることが出来るのも、あの時のエネルギーのお陰と思えてならない。
 三度目の入院で初めて体験する「陰性症状」、薬効あって、親切なお医者さんのお陰でかくまでに変わってしまうのか。物静か、だんまり、何を思い続けるのか。本当に静かになってしまったわが子、薬からの断絶が長かった過去は何だったのか、かくまできっちりと投薬が身につくなんて、わが子の変わり様に驚くばかり。とにかく、家族の一員になったのだ。家族一同、平穏な日々が続き、毎晩の戸締まり、自分の食器の後片づけ、母親と交わすさり気ない会話、掘りたてのジャガ芋の運搬、これから生きていかねばならない始まりのこと、その一つ一つは漆黒の夜空に輝く星の瞬きのよう、大事に育てあげていこうとしている。
 家族会に入って本当に良かった。学習や活動の中で沢山のことを学び得た。
 まずもって何よりも、私の心の奥底にくすぶっていたわが子に対する差別、偏見の忌まわしい思いが無くなったこと。同じ悩みや苦しみを味わってきた人達と一緒に、小さいこと、大きいこと何でも、制度の改革や施策の向上に、自分の生き甲斐を見い出せるようになったこと。本当に感謝感謝である。
 
福島県
生きていて良かった
柵瀬敏夫
 
 私は今年で52才になります。そんな私が自分の人生を振り返る時、なんとケガ、病をたくさん経験してきたことかと感じいってしまいます。
 ヨチヨチ歩き始めた幼少時に机のカドに前頭部を打撲、それは今でも額に傷が残されています。私が自我意識の目覚めのないままに現実を検討する能力が欠如していたことも、ここに原因があったのだと自分では思っています。小児結核。少年期の両足の大やけど。遊び友達の投げた石が当たり後頭部の打撲、相当量の出血がありました。青年期には右側頭部の打撲、6針を縫いました。動き始めた汽車から落ちて意識不明になり救急車で運ばれたこともありました。8年前には火事に逢い全身大やけどをし、1週間の意識不明から目覚め治療を受けましたが両手不自由な身体障害者となりました。
 小学校4年生の時には自家中毒からリューマチ熱となり心臓病を併発し4ヶ月の入院をしました。3年間のドクターストップが解かれ、中学校でのクラブ活動バスケットボールを始めて徐々に心身も回復し高校生活を過ごしました。不良的であったのですが人生の中で楽しく日々を過ごした季節であったと思います。しかし、いかんとも統合失調症の症状の一つでもある、現実を検討する能力が欠如していることは致命的問題でした。キャプテンらしいこともしないキャプテンをしたバスケットボールも、高校3年の夏休みには活動を終え、自分で進路を決めたのでもない、学校の先生に進められるままに面接を受けた会社に就職が決まってしまい、日々の生活にするべき目標のないままに毎日をボンヤリと過ごしていました。そんな時、当時流行っていたボンド遊びを覚えました。心のモヤモヤは晴れ、自我意識が目覚め、楽しい夢は見られるし私は病みつきになりました。気がついた時は薬物依存症となりドン底へと落ちて行きました。24才の時始めての精神病院への入院となり、それ以来7年前の入院を最後にして20回位入退院を繰り返しました。「死にたい。」「死にたい。」と思ったこともありました。
 私は当事者活動をしています。始めてから4年になります。あることをきっかけに、逃げ続けていた病苦を、人生の苦を受容してからのことです。苦楽を受け入れてからのことです。気がついてみると、自分自身の問題を家族、医療関係者、施設の関係者に任せっきりで、与え続けられるだけで生きて来た自分が、自立生活を実践し始めているのです。今私は、NPO全精連の理事をしています。福島県精神障害者団体連合会の事務局長をしています。地域の当事者の会「善提樹」の代表をしています。家庭相談員とかその他の社会的立場を得て精神障害者のQOLの向上を推進するための活動をする私になってしまっているのです。人生とは不思議なものです。移り変り行くことの真実をつくづく感じます。幻聴、睡眠障害、見張られている感じ、打撲の後遺症の疼きなどの症状が働いている時。活動の中での未解決問題が山積みにされプレッシャーの中でイライラしている時。そんな時は思うことはできないでいますが、症状が休息していて、活動から開放されて、FNから流れる音楽を聞きながらのんびりしていると「生きてて良かった」と本当に思います。仲間とビアカンをしていると、私だけが病気になりそれに伴う苦を経験し、付き合いながら生きているのじゃないのだと気がつかされます。そんな時、「私一人ではないのだ」と気がつかされます。ある時期まで避けていた精神保健福祉分野の専門職、関係者がそっと私を見守ってくれていて、色々と配慮してくれていることに気がつきます。そんな時、「一人ぼっちじゃないんだ」と思えます。生きる力がみなぎってきます。
 「生きてて良かった」。
 
山形県
私の体験談、バンドほっとフレンズについて
山形県小規模作業所ほっとステーション未知
通所者 亀田祐司
 
 皆さんこんにちは、亀田です。
 私の病歴は22歳の2月頃に発病して、今38歳ですから、約16年位たちます。その間に色々なことがありました。ここで、それを発表してみても良いのですが、長くなりますから、その話は置いて、現在、通所している作業所の“ほっとステーション未知”で組んだ、山形県で唯一のバンドのことについて、これから語っていきます。
 今から1年半前の6月頃に、ほっとステーション未知でバンドを組みました。
 そのバンド名は“ほっとフレンズ”といいます。メンバーの一人がベ一スギターを購入し、ピアノを少しだけ習っていたというメンバーもいたのですが、やっぱり音楽の先生に習った方が良いという事になって、指導員の友人でもある音楽の先生にお願いして、教えてもらうことになりました。そして、音楽の先生も快く承知してくれました。
 その先生は、気さくな人で、ユーモアもあって音楽の練習が楽しみでした。そして、2年程前の12月に合同クリスマス会があり、ほっとフレンズはデビューしました。申し遅れましたが、私はヴォーカルで、ホットフレンズの司会も務めました。
 その後も、音楽の先生はほっとステーション未知に来て、楽しく音楽を教えてくれました。毎日が楽しみでした。
 そんな時、突然、音楽の先生は、この世を去りました。折りしも、1ヵ月前に他の作業所から交流会に呼ばれていて、その先生も楽しみにしていました。
 音楽の先生は、前から糖尿病を患っていましたから、それが亡くなられた原因だったと思います。
 それに追い討ちをかけるように、キーボードを弾いていたメンバーが体調を悪くして、作業所をしばらく休むことになってしまいました。そして1ヵ月後、キーボード抜きで交流会は一応、無事に演奏をする事ができました。
 その後、ほっとフレンズはどうなったかというと、前の音楽の先生の友人だった、新しい音楽の先生に教えてもらっています。キーボードを弾くメンバーも復帰して、今、12月の発表会に向けて一所懸命に練習しています。私もヴォーカルだけでなくギターも憶えようと思って頑張っています。
 ほっとフレンズはメンバーが変わったりしましたが、来年の東北ブロック大会は、山形ですから、そのアトラクションでバンドが出られるかもしれません。是非、見に来てください。
 亡くなった音楽の先生が言っていました。「音楽がオンクにならない様に、またスポーツにもならない様に」と。その言葉をモットーにして、ほっとフレンズは、今日も練習しています。
 最後にバンドの良さを、私なりに言います。
 自分たちの演奏で、しかも出来なかった所が、今日は出来たとか、その音が美しいハーモニーとして表現されると感動してしまいます。







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