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会員外新卒(養護学校)者受け入れ 喫茶就労へ
様々な角度からのアプローチに対してM子さんは充分応えることが出来た。予想外ではあったが、そのことによって、M子さんの就労に反対を唱えるものがいなくなった。一方、だれもが当然来るだろうと考えていた会員の子供達はといえば、冬休みはもちろん土日にも来る事無く過ぎていたが新年に入ると以前からあたかも決まっていたかのように4月からの就労を求めた。しかし、受け入れる側の準備と態勢、そして預ける側の覚悟と本人の資質/状態には大きな落差があった。
2人は「就労」というには程遠く、生活の基礎訓練から必要と思われる状態であると判断せざるを得なく、拘束は短い時間が精一杯ではないかと思えた。そこで「一日2時間から始めたい」と提案したが、親からは受け入れてもらうことができずに何度か話し合いを持った。特に、1月24日の父母の会クループ会合では親の本音を出し合った内容となり2人の親から後日「会への要望と自分たちが出来ること」を文書化して出してもらうことにした。
その頃、作業所は借りることが出来たが中で作業する状態にはなく、一人ずつ交替ならば可能でも一度に2人をみることは所長には出来ないことを話したり、親からは希望も率直に語ってもらったりしてきた。それによれば地域の市民向け教室などへも通わせて欲しい等、およそ作業所の持つ役割とかけ離れたような要望が出た。また、パートを雇い入れる資金の提供も条件として示され具体的な「交渉」のような話し合いとなった。
最終の話し合いは喫茶室で1月30日夜行なわれた。会長から二人の親に要望に沿えない事、4月からは預かれないことを伝えた。今、作業所や喫茶があなた方のお子さんを預かる力が無いことを話したが、二人の親は会に協力してきたのに預かってもらえないと憤慨し結果的にはこの日を最後に会を離れていった。子供たちは4月からそのまま同じ施設に入所となった。この施設は自由時間があるらしく時々市内で2人に出会い声を掛け合っている。また一人はよく電話を掛けてよこす。「青りんごに行きたい」と言ってくれている。
4月1日からM子さんを迎えて始まった障害者の喫茶室就労は開店当時から働いていた視力障害のHさんとN子さんを合わせて3名となるはずだった。実際には、N子さんが仕事上の指導を受け入れることが出来ずに辞めていき2名の就労となった。何とか、喫茶青りんごを障害者の就労の場としてつなぐことになり、面目を保つこととなった。
作業所にすばらしい助成が 保健所認可の「事業所」へ
一方、作業所整備は市社会福祉協議会、社会福祉・医療事業団等の支援助成をいただきながら予想外の順調さで7月の開設を迎えることが出来た。就労の場である喫茶青りんご開設から8ヵ月後であり、早い展開についてこれない会員も何人かでた。
「私達の子供が卒業できる(5年後くらい)時で良かったのに・・・」という声が知的障害児を持つ親達の気持ちを表していた。つまり、自分の子供が必要とするまで作業所は会員向けのレスパイトの場でありさえすれば良い、ということだった。それでは、それまでの間どうやって作業所を維持運営するのか、などということは考えてもいないようであった。ましてやレスパイトのボランティア達、賛助の呼び掛けに応えてくれた市民・支援者に対する責任などはどこにも感じられない。我が子さえ良ければ後は関係ない、という姿勢が一部に表面化してしまった。
しかし、会の計画が多くの団体に認められたことやケーキ・クッキーの製造を喫茶室ではなく作業所内で出来ることは会にとって大きな喜びであり「障害者街角ふれあい事業」の推進にとって拠点が出来ることであった。開設内覧会にはお世話になった方々からたくさんの祝意が寄せられ、特に各高等養護学校の校長先生方から期待のメッセージをいただいた。豊栄市内では4番目の作業所だが、障害の種別を問わない単独の会が行政の直接の補助を受けずにカンパと助成金で作業所を開設していくことは今後の例として記録されることと思う。6月30日は青りんごの会にとって第2の出発の日となった。
作業所は菓子製造業の認可を取るために工事を行ない、内装と備品を整備するものであったが、着工してみると保健所認可の前に消防(防火)と建築確認が立ちはだかった。私たちの思惑は大きく外れ、一気呵成に全ての認可を取らないかぎり一つも前進しないこととなった。しかし、ここからは有り難い出会いの連続となった。助成金を事業目的に使わせていただきながら、工務店、設計事務所、市役所の担当者の力を借り、もちろん家主のJAさんの許可を頂戴し内覧会に漕ぎ着けることが出来たのはこうしたすばらしい出会いのおかげであった。いずれにせよ8月の夏休みは長期のレスパイトと汗をかいてのケーキ焼きの連日となった。
改革の秋 いろんな事が一挙に生じて
焼き菓子製造の許可を取り、いろんな所に売りに行けるようになったのを切っ掛けに有償ボランティアを1名募集することにした。市の広報に掲載してもらったらすぐに何人もの人から問い合わせがあった。しかし、障害者と日常的に接することを言うと大方は面接にもお出でいただけなくなってしまった。本当にそうだった。喫茶の仕事はやりたいが、障害者との付き合いや支援は御免だ、ということが目に見える様で良い気持ちはしなかった。しかし、お一人は違った。今この方と一緒に「生活指導」やケーキを焼いたり大声で笑ったりしている。ここでもすばらしい出会いがあった。彼女は障害者をかけがえのない生命を持つものとして健常者である自分と同じと、思える人だった。
一方、喫茶室にも大きな波が押し寄せていた。店長の辞意(11月の1周年で辞めたいとの意向)と会員職員のハードワークが重なり内部に大きな軋みが生じていた。だれが喫茶を直接経営するのか、店長をだれがやっていくのか、職員体制をどうするのか。ここまで来ると永井店長に代わって経営を行なっていく人を会員の中から生み出すか、外からお願いしてくるか二者択一となった。喫茶の経営は逼迫していたが仲間内のやり方で上手く運営が出来ていたので変革を必要無いという意見もあったが、作業所が新しくなっていき障害者の就労を喫茶で支援するにはお母さん達はどうしても力不足であった。また、それぞれの家庭ではリストラ問題や新事業を行なう人などいて混乱を来していた。既に、引継ぎの時間も考えなくてはならない時期になっていた。永井店長を引き止めることはこれまで2度にわたって無理をお願いしてきた手前到底出来ない相談だった。
9月に入りハローワークに求人を出すことに決め様々な手続きを始めたが、一番気掛かりだったのはこんな低賃金(最低賃金)のところに、しかも障害者に理解のある人という条件が付いている喫茶室に来てくれる人がいるのかだった。この募集については、後で市側と沢山な議論をするここになった。私達が雇用したのはあくまで障害者の就労を支援する「指導員」であって、喫茶の従業員を雇用したのではないこと、全国には障害当事者が働くためにサポートする職員を雇って運営されている喫茶店、食堂はたくさん在ることが市側には理解できなかったらしい。話し合いでは「青りんごの会に任せたのはお母さん達がやるというから温情で任せたのだ」という発言さえ出てきた。今は、喫茶室に障害者の働く様子が見て取れるので市の担当者も安心している様子だが。
新しい通所者は職安からやってきた
小規模通所作業所県単事業Cランクに入れてください
ハローワークでは障害者と企業との求職面談会が行なわれている。9月17日には新発田市内のホールで例年のように行なわれたが、青りんごの会は出来たら障害者を喫茶室で雇いたい旨申し込んでおいたのでお誘いがあった。2日前ということで慌ただしく用意をして参加した。ここでの出会いが、今後の作業所を決定していくことになる。すでに作業所を認可化する方針を決めて運動していたので保健婦さんに在宅の障害者で働く意欲のある方の紹介をお願いしていたが、それより先にこの面談会で一挙に3人のメンバーをお誘いすることになった。そして今までの当事者、保健婦さんからの紹介者と合わせて10人の通所者となった。
脳性マヒ、精神障害、知的障害。まさに市民に向けて訴えた障害の種別を超えて地域で当たり前に暮らしたいと願う人々の集う場所となった。レスパイトの場から文字通り作業所として「主人公」が揃って一段階グレードアップした出発は、市の保健福祉課からの「1年前倒しで作業所の認可化」の方向で弾みがついた。この人たちと一緒ならやれる。
夢見た作業所の実現 リタイヤOK、お疲れなら休みなさい
所長として夢見た「出入り自由な作業所」の実現。そのために人通りの多い公民館前に作業所を借りたのだ。自信を失いかけたとき、疲れたとき、社会に乗り出したいけど・・・、そんなとき作業所を使って元気が出たら、外へ出るというような気軽さで、出来るだけ少ない規則で、生きることが少しは楽しくなるような気持ちになれて、入った切りの場ではない所。健常者が転職するように障害者にも選択が許される場所でありたい。そして、何よりも障害がいちいち問題にならない所でありたいという、想いを形に出来る場所、それが私達のめざす作業所なのだ。(本当はこの呼び名は相応しくないのかもしれない)
焼き菓子は“売り物” みんなで粉をこねる、形を作る
焼き菓子を作業所の売り物にしている。ケーキやクッキーを製造し、県庁生協や社会福祉協議会の「出店」など4箇所に置かせてもらっている。その他豊栄市内の保育所などに協力していただき直接販売させてもらっている。暖かい言葉を掛けていただくと同時にお菓子を買ってくださるので通所メンバーの張り合いとなっている。販売に行く時は、買ってくださるお一人ひとりが自分たちの生活を支えてくれるのだという思いで出発する。
さて、そのお菓子について賛否両論があり様々な意見が寄せられている。お菓子にも流行があり、時流に乗ったもの、夢見るようなきれいで手の掛かったもの、私だって出来れば口にしたい。そんなお菓子なら遠くに行っても買ってくるだろう。
私達の作業所は障害の種別を問わない。いちいち障害を前面に出して作業なんかしたくはない。それより何より全体の流れとしては調和がとれ、「生産性」もあるほうが良い。その為にはいつでもどこからでも作業を始められ、作業する人が増えても減っても作業が継続でき製品化されたものは長期保存が可能であることが条件となるのだ。
その全ての条件を満たしたものが焼き菓子だと思う。基本のレシピを開発すれば思いついた数だけバリエーションが拡がる。作業の途中で一休みが出来、いつでも続きを始められる。そんな夢のような仕事ならずうっと続けて行けるだろう。おまけに添加物無しのお菓子なのだ。安全、安心な食物をローソンでさえ(1店舗丸ごと)置くようになった時代である。忙しい人々に代わって作り続けよう。お陰さまで定番商品が生まれてきた。「他に無い味だよネ」と予約を受けるようにもなった。
仕事といえば、お菓子の生地造りや型抜き、焼くこと、袋詰めくらいを思い浮べる人が多いが、商品となれば宣伝の為のキャッチコピーを考える。デザイン(チラシや包装に至まで全て)数えきれない程の仕事をメンバーで分担する。これも固定化せずにその日の調子で決める。大体の役割は決まってもそれが決定ではないところに自由さがある。それ故自分の仕事が全体を背負ったものだと日々実感でき、大切な仕事なのだから一生懸命やることになる。出来る人出来ない人の差は、自分の出来る仕事をこなすことで感じなくて済む。劣等感など持つ必要は無いのだ。事実、生産力は当初に比して約3倍にあがった。
作業所で話題になっていること 自立生活を求めて
自立生活をしてみたいけど、まったくの一人は心細い。けれどもここの仲間が一緒ならやれるかもしれない。アバート暮らしから始めてみたい。できれば皆が一緒に借りられるところが良い。勿論、建物は同じだけれど部屋は別、ホールのような所で食事もおしゃべりも出来たらいいねと夢は広がり、いつかきっと実現しようと誓い合い、通所を始めた頃の「腰掛け気分」が抜けている。幸いグループホームの手本は沢山ある。一つ一つ学んで、自分たちに相応しいホームを作ろう。
そして、私達が決して忘れてはならないこと。「青りんごの会」は“障害のある人も無い人も地域で共に生きる”ことを訴え、支援を受けてきた。喫茶青りんごも作業所も多くの人々の支援を受けてこそ存在する。もしも、私達の声に耳を傾けてくれる人がいなかったら、カンパをはじめとしてボランティアや建物や知恵は私達に廻ってはこなかっただろう。だからこそ私達は自分達のことだけを考えて済ますわけにはいかない。
地域支援事業の実施主体に 困っている人同士の助け合い
地域の人々に私達が出来ることで応えていきたい。レスパイト(ケア)は会員向けに始めたものだが、これを地域支援事業として外に向かって門戸を開いていこう。困っているのは会員だけではないはずだから。
手のかかる障害者と言われる私達の姿は、高齢者の大多数の姿でもあるはずた。それなら、私達はもっと高齢者と一緒に考え行動できるはず。
1972年に作られた「さよならCP」という映画に出会って、主人公の横塚夫妻を異様(当時としては)としか受け取ることができなかった。それ以来長い間「糾弾」を受けながらも障害者側から世の中を見るという視点を外すことが出来なかった。
現在、障害のあらゆる種別を問わない作業所で、一人ひとりの生命と向き合い学べることの幸せを得ていることはこれまで出会った生き方の違う人々も含め全てのおかげと感謝している。
青りんごの2年間を走り走りでお話させていただいた。今も青りんごは大きな流れの渦中にあることは間違いない。行き津戻り津しながらも道の無いところを遠くの明かりを目差して歩き続けている。しかし、一人ではない。沢山の支援をいただいているから、もう少し困難な道も歩くことが出来るだろう。
これをお読みの皆様、青りんごのケーキ・クッキーをどうぞ召し上がれ。
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