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アイコウボウ・アメリカ誕生
八八年二月の家探しは残念な結果に終わってしまったが、私たちはあきらめたわけではなかった。その後も私たちは何度となくフランスを訪れ、家を探して廻った。パリ市内でだめならパリ郊外へ。私たちは行動範囲を広げ、いくつもの家を見て廻った。しかし、結果ははかばかしくはなかった。
ところが、そんな私たちについに転機が訪れた。
一九八八年五月、藍工房の施設長竹ノ内は、アメリカ西海岸・ワシントン州・バンクーバーで開かれたインターナショナル・チャイルド・フェスティバルに参加していた。
このフェスティバルは世界の子供たちの祭典で、世界中のあらゆる国からたくさんの子供たちが集まってきていた。このころ竹ノ内は児童心理学を勉強していて、その関係でこのフェスティバルに呼ばれたのである。
このとき竹ノ内は、その会場でジーンさんというおばあちゃんと知り合った。ジーンさんは地元の人で、この地域の日米文化交流のリーダーをしている人であった。
竹ノ内はフェスティバルの期間中ジーンさん宅に泊めてもらうことになり、日本の障害者や藍工房についていろいろと話をした。そして、フランスに進出しようとしていること、なかなか思うような家が見つからないこと、フランスの人たちは日本の障害者に冷たいことなどを話した。
するとジーンさんは「フランスで家を探すなんておやめなさい。どうせ探すならアメリカで探した方がいいわ」と言った。
「アメリカ人は障害者に理解があるし、きっとその方がうまくいく。それに、バンクーバーに来るのなら家はわたしが紹介してあげるわ」
竹ノ内はその言葉に感激し、ジーンさんの手を握って「ありがとう」を繰り返した。そして、さっそくジーンさんのいう物件を見に行ったのである。
バンクーバー市内の閑静な高級住宅街。背後に森が広がり、敷地には川が流れている。平屋の建物には半地下があり、作業をするには充分な広さがある。そしてなにより良いのは、ジーンさんの家から二ブロックしか離れていないことである。
「ここなら何かの時にはわたしがいつでも来てあげられるでしょう」
ジーンさんはそう言って、やさしく微笑んだ。
竹ノ内は「ここしかない!」と思った。そして、その場で即決し、手付金を払って帰国した。
竹ノ内は帰国後、資金集めに奔走した。手付金は払ったものの、これからの支払いのめどが立っていない。出来るだけ多くの寄付金を募らなければならないのである。日ごろからお世話になっている朝日新聞の記者の方にも協力をお願いし、アメリカに進出しようとしていること、資金難に苦しんでいることなどを語った。
記事はすぐに掲載された。そして、それを見て一人のアメリカ人男性が藍工房を訪ねて来てくれたのである。それが、フランクさん(現在のアイコウボウの理事の一人)である。
フランクさんはこの時、3M(スリーエム)の東京支社に出張で来ていた。東京での住まいが藍工房のすぐ近くだったことと、アメリカの自宅がバンクーバーのすぐ近くだったことから、アイコウボウに興味を持って訪ねて来てくれたのである。
話を聞くと、フランクさんの従兄妹のディドリーさんという人がバンクーバーで不動産業をしているらしい。そこで、バンクーバーの不動産情報を教えてくれるというのである。
それからフランクさんは、ディドリーさんから不動産情報を入手するたびに、藍工房に知らせてくれるようになった。
私たちはフランクさんが持って来てくれるチラシを丹念に調べ、より良い物件がないかどうかチェックをしていった。そしてその中に、条件にぴったりの物件を見つけたのである。
時を同じくして藍工房に良いニュースが舞い込んだ。ボランティアで藍工房に関わってもらっていた河北さんの義母さんが、退職金の半分を寄付してくれるというのである。
私たちは、さっそくそのお金を持って再渡米した。ジーンさんが紹介してくれた物件と、ディドリーさんが紹介してくれた物件のどちらかを買うために。
九月半ば、私たちは希望を胸にバンクーバーの地を訪れた。
このときの一行は、総勢十名。うち障害者は五名であった。滞在期間は二週間。この間に、家の契約と受け渡し、そしてだいたいの設備を整えるつもりだった。
私たちはバンクーバーに着くなり、さっそく二軒の家を見て廻った。ところが残念なことに、話はそう順調には進まなかった。ジーンさんから紹介された家に行ったところ、売主からここを売ることは出来ないと言われたのである。
アメリカでは家を買うときに、すでに住んでいる地域住民一軒一軒に許可を取らなければならない。実は、住民の一人が日本の障害者が越して来ることに反対したのである。
私たちはがっかりした。しかし、これはもうしかたがないことである。私たちは手付金を返してもらい、もう一軒に望みを託すことにした。
ところが実際に行ってみると、ディドリーさんが紹介してくれた家は思っていたよりも古く、住むためにはいろいろと修理が必要であることが分かった。それにいま修理をしても、すぐにまたガタがくることも予想された。
結局私たちはこの物件もあきらめ、新たに家を探すことにしたのである。
とりあえずモーテルに部屋を取り、レンタカーを借りた。そして、日中は全員でいくつもの物件を見て廻り、夜はモーテルで情報誌と首っ引きになる毎日が続いた。
ディドリーさんとジーンさんもいろいろと協力をしてくれた。ディドリーさんは新しい物件が見つかるたびに連絡をくれ、車で案内をしてくれた。また、ジーンさんも独自のルートでいろいろと口を利いてくれていた。そしてついに、努力の甲斐あって私たちは待望の物件を見つけることが出来たのである。
帰国日まであと残りわずか。私たちは滑り込みセーフで契約を交わした。しかし一つだけ問題があった。そこにはまだ人が住んでいたのである。訊くと、引渡しが出来るのは三ヵ月後だという。もう帰国日は迫っている。しかたなく私たちは、横沢さんと藤倉くんだけを残して帰国することにした。しかし二人とも三ヵ月もモーテルにいるわけにはいかない。そこで急きょホームステイ先を探すことになった。
横沢さんはディドリーさんが快く引き受けてくれることになった。そして藤倉くんの方も、従姉妹のイディさんに紹介してくれた。
私たちは後を二人に託し帰国した。そして二人はホームステイ先で引渡しの十二月を待ったのである。
三ヵ月後、私たちは再びバンクーバーの地を訪れた。引渡しの済んだ家には横沢さんと藤倉くんが移り住んでいて、私たちを笑顔で迎えてくれた。
玄関まで続く芝生の庭。広いキッチン。大きな暖炉。
ここが新しい藍工房。ここがアメリカの藍工房−
八八年十二月。こうしてアイコウボウ・アメリカは誕生したのである。
※現在はアイコウボウ・USAと名称が変更されているが、開設当初はアイコウボウ・アメリカであった。
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