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4−4. 考察
 今回の実験で得られたNitzschia sp.によるリン酸取り込みのKs値は2480μMであった。藻類による栄養塩取り込みの半飽和定数(Ks)は制限栄養塩に対する親和性の指標といえる(Dugdale 1967)。一般的な傾向として大型種は高いKs値を示す傾向があり(Eppley et al. 1969)、Nitzschia sp.のKs値は他の海産植物プランクトンで報告されているKs値と比較すると1,000〜10,000倍も高い(表4)。このことは、リン酸塩濃度が極めて高い底質環境に本種が適応した結果であると考えられる。
 
 閉鎖性水域は海水交換が小さいので、人間活動による陸域からの過剰な栄養塩の負荷が植物プランクトンのブルームを引き起こし、生産された粒状態有機物は底泥に蓄積される。バクテリアによってこれらが分解されることで底泥は還元的となり、しばしば貧酸素水塊の発生につながる。また、還元状態になると、底泥粒子に吸着していた無機リンが溶出する(村上 1977、山本ら 1998)。本種を採取した海田湾における底泥間隙水中のリン酸塩濃度の測定は今回は行っていないが、瀬戸内海沖合域の濃度は、せいぜい150μM程度と報告されているので(山本ら 1998)、本種の高いKs値からは、本種が局所的に非常に富栄養化した場所に適応した種であると言える。
 
 本種によるリン酸塩取り込み能はどの程度であろうか?仮に本種の細胞内リン含量を細胞体積(V=6220μm3;細胞形状を幅10μm、高さ22μm、長さ150μmの長楕円形と考えて計算)をStrathmann(1967)の式(logC=0.758log V−0.422)に当てはめて炭素含量を求め(C=280pg cell−1)、これをレッドフィールド比(Redfield、1934;Fleming、1940;Redfield et al., 1963)を用いてP含量に換算すると、0.22pmol cell−1が得られる。この値と本種のρmaxとから、一日当たりの最大比DIP取り込み速度は40day−1となる。この値は短時間の実験によって得られた最大取り込み速度を用いて計算したので、単にキャパシティを示すものであるが、一日で細胞内に含まれているリン量の約40倍ものリン酸塩を取り込みうることを意味するものである。中程度に富栄養化した瀬戸内海の底泥ではどうであろうか?瀬戸内海沖合域底泥間隙水中のリン酸塩濃度150μMの時の取り込み速度は先のMichaelis−Mentenの式を用いて、0.021pmol cell−1hr−1が得られる。これを細胞内リン含量0.22pmol cell−1で割ると、比取り込み速度(細胞内P含量あたりの取り込み速度)は2.3day−1となる。実験的に得られている最大比増殖速度は0.26day−1なので(広島県環境保健協会 2002)、中栄養の底泥において取り込みの定常状態を仮定した場合でも、本種は増殖に必要とする量の約10倍のリン酸塩を取り込む計算になる。
 
 以上のことから、本種によって取り込まれたリンのほとんどは増殖以外の経路に回されていると考えられる。一つには細胞内への蓄積であり、浮遊性植物プランクトンのいくつかの種では、取り込んだDIPを蓄える機能を有していることがよく知られている(Eppley et al. 1969a)。もう一つは、細胞外への排出が考えられる。山本ほか(2000)が渦鞭毛藻Alexandrium tamarenseで行った実験では、増殖速度が大きい場合に細胞外への正味の排出量が大きくなることが報告されている。これらのいずれが本種で大きいのかは今後の研究課題である。
 
 本種は栄養塩取り込み以外の生理的特性にも特徴がある。例えば、増殖至適光強度は30μmol m−2sec−1であり(広島県環境保健協会 2002)、この値は水中に浮遊して十分な量の光を利用できる植物プランクトンのものと比較すると非常に低い。例えばAlexandrium tamarenseS. costatumは200μmol m−2sec−1程度(Yamamoto et al. 1996,樽谷ら 1994)、Gymnodinium catenatumは500μmol m−2sec−1程度である(片岡 2001)。今回実験に用いたNitzschia sp.の低光環境への適応は遺伝的に獲得された形質であると思われるが、詳細な検討は今後の課題である。
 
 また、先にも示したように、本種の最大比増殖速度は0.26day−1である(広島県環境保健協会 2002)。この結果を他種と比較するとかなり小さい値であり、浮遊珪藻S. costatumと比較すると約1/5、一般に増殖速度の遅い渦鞭毛藻Gymnodinium catenatumと比較してもさらに小さい(表5)。増殖速度を支配する要因はさまざまあるが、浮遊性植物プランクトンに対してこれまで言われてきた補償光量(光合成が呼吸を上回る光量)は温帯域で0.002−0.009 ly min−1=5.71−25.71μmol m−2sec.−1;Strickland 1958, McAllister et al., 1964, Hobson 1966)程度である。しかし30μmol m−2sec−1での浮遊性植物プランクトンの増殖速度は例えばS. costatumでは0.07day−1程度なので(Yamamoto et al. 2002)、本種の増殖速度はこの光レベルでは浮游性藻類に比べると非常に高いことが分かる。
 
 以上、今回実験に供したNitzschia sp.の生理学的特性をまとめると、(1)DIP取り込み速度が非常に大きく、(2)弱光下での増殖が有利に行われることであり、本種を利用した底質環境の改善の可能性を強く支持するものである。すなわち、本種を大量に培養して、劣化した海底泥に散布することで、底泥中のリン酸塩を吸収させて浄化し、光合成による酸素放出によって還元的な底質を酸化的にすることで、カニやエビなどの底棲動物の生息を保証するという生態工学的底質改善の可能性を示している。本種が光合成によってどの程度の酸素放出を行うかということは今後の研究課題であるが、増殖したNitzschia sp.を餌として増える底棲動物がさらに魚類などの高次食段階の生物に捕食され、漁獲その他によって系外に運ばれるような循環が確保されれば、汚濁の進んだ底質は急速に改善されるであろう。
 
表4 Nitzschia sp. と他報告種のリン酸取り込みKs値の比較
種名 Ks(μM) ρmax(pmol cell−1 hr−1 引用文献
Nitzschia sp. 0.371 2480 This study
H. circularisquama 岸上(2003)
G. catenatum 3.4 1.42 片岡(2001)
A. tamarense 2.6 1.4 Yamamoto and Tarutani(1999)
G. mikimotoi Yamaguchi and Itakura(1999)
A. catenella 0.72 松田ら(1999)
H. triquetra 1.6 0.39 樽谷(1997)
H. akashiwo Watanabe(1982)
C. antiqua 1.9 0.14 Nakamura and Watanabe(1983)
S. costatum 0.68 0.0384 樽谷・山本(1994)
C. didymum 0.09 山口・松山(1994)
 
 
表5 Nitzschia sp.と他報告種の最大比増殖速度の比較(μ'max)
種名 μ'max(day−1 引用文献
渦鞭毛藻 Gymnodinium catenatum 0.37 片岡(2001)
Arexandrium tamarense 0.56 Yamamoto and Tarutani(1999)
Heterocapsa triquetra 0.72 樽谷(1997)
Heterocapsa circularisquama 1.08 山口(1996)
Gymnodinium mikimotoi 1.11 Yamaguchi and Itakura(1999)
ラフィド藻 Chattonella antiqua 0.86 Nakamura(1985)
珪藻 Skeletonema costatum 1.25 樽谷・山本(1994)
Nitzschia sp. 0.26 広島県環境保全協会(2002)
 
(2)現場海域投入のための藻類大量培養手法の確立
 今回の実験では2台の装置を使ったバッチ培養を適用し、両方ともほぼ同様の増殖曲線が得られた(図11)。設定した初期細胞密度(約2.3×103cells ml−1)では誘導期が二週間程度かかった。一方、最終的な細胞収量は4×104cells ml−1程度にまで増殖したので、十分な量が確保できることが分かった。来年度予定する現場への散布実験に対しては、二週間程度の短期間で十分量を確保するよう、初期濃度を今回の2倍程度に設定するのが適当と思われる。
 
 
(拡大画像:124KB)
図11 大量培養実験によるNitzschia sp.の増殖曲線。2つのバッチ。初期細胞密度約2.3×103cells ml−1、15℃、30psu、30μmol m−2sec.−1、明暗周期 12L:12D(6〜18時明期)。約9gのガラスビーズを導入
 
 
5. まとめ
1)今回実験ではNitzschia sp.の生理学的特性として、弱光下での増殖が有利に行われることが明らかになった。
2)また、Nitzschia sp.はDIP(溶存態無機リン)の取り込み速度が非常に大きく、本種を利用した底質環境の改善の可能性が示唆された。
3)本種を大量に培養して、劣化した海底泥に散布することで、底泥中のリン酸塩を吸収させて浄化し、光合成による酸素放出によって還元的な底質を酸化的にすることで、カニやエビなどの底生生物の生息を保証するという生態工学的底質改善の可能性が示唆された。
4)今回の培養実験で設定した初期細胞密度(約2.3×103 cells ml−1)では誘導期が二週間程度かかった。一方、最終的な細胞収量は4×104 cells ml−1程度にまで増殖した。したがって、今回の培養方法を用いれば、来年度(2003年度)の散布実験に必要な量が十分確保できる。
5)散布実験に対しては、二週間程度の短期間で十分な量が確保できるように、初期濃度を今回の2倍程度に設定するのが必要である。







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