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三、庄内の絵蝋燭
 蝋燭は、江戸時代になって、提灯や燭台などの灯火用具の工夫もあって、急速に普及したといわれている。寛永年間に江戸に蝋燭を登らせた記録があり、庄内藩でも当時多くの生産が行われていたと思われる。しかしはじめは木蝋を原料とする蝋燭は高価であったために、一般の日常生活には、魚油や油のしみこんだ松根をともして灯りとしていたところが多くあった。松ヤニ蝋燭は、松の木の樹脂を細長くのばし、笹の葉で包んだもので、セッカン蝋燭ともよぶのは、時々突いて火を明るくする必要があったためで、セッカンという松の根をたく灯台もこの地方では明治になっても使っていた家もあった。
 明治三年(一八七〇)の鶴岡町の「商戸職業取調帳によると、蝋燭屋が二十四軒、提灯張が七軒と記されている(庄内史要覧)。
 蝋燭作りの過程を、鶴岡市山王町で手描き絵蝋燭店を営む富樫雄治氏よりの御教示により略記してみる。
灯芯作り=芯棒に和紙を巻き、そのまわりをイグサで巻いていき、その上に真綿をつける。銅製の鍋に木蝋を入れ、火に温めてゆっくり溶かす。これに今はパラフィンと硬化油を混ぜる。
湯づけ・練づけ=銅鍋の蝋が液状になると芯棒を順次につけていく、はじめは縦に鍋に入れ、つぎに横にしてつけ、何回も蝋をかけて太くしながら上に大きく下を細くなるように形を整えてゆく。練づけは、固めの蝋をぬりつけてゆく作業である。
カンナかけ=湯づけが終わると大体の形ができるので、小刀で蝋の荒い面をけずり、カンナで形をよく仕上げてゆく。
磨き=孟宗竹の皮で作った網代で荒みがきをかけ、つぎに同じ孟宗竹の広い皮で仕上げみがきを行い艶をだしてゆく。
仕上げ=包丁をあたためて、上面の芯先を切り出し、ついで物指で長さをはかり、下の芯棒のまわりを切り取ってできたものを雁木にかけておく。
 蝋燭の大きさは、十匁がけ、三十匁かけ、五十匁かけなどと呼ばれる。蝋がけという何回もかけて作るので断面は木の年輪のようにみえる。
 絵蝋燭は、花(華)紋燭ともいわれている。
 この地では、主として仏事に用いられており、文化年間の記録にもこうした習わしがみえる。また、贈答用として他地方に送ったという記録もあり、当地の特産として珍重されたものであろう。
 鶴岡の絵蝋燭について、鶴岡市史に次のように述べてある。
 「鶴岡の特産絵蝋燭は、花紋燭ともいい、白い晒蝋で作った蝋燭に、草花などを色絵で描いた見事なもので、享保年間(一七一六〜三五)上肴町の皆川重兵衛が初めて作ったと伝えられる。昔は一々筆で描いたが、近時は紙型を使用して生産工程を簡単にしている。
 天明六年(一七八六)藩に「御用」の二字を蝋燭看板につけることを願い出て許可された(中略)。
 酒井候が花紋燭−花筒ともいう−を献上したところ途中で破損したので、江戸市中の蝋燭職人を集めて修理させることになったが、誰一人としてそれを修理し得るものなく、仕方なく庄内から重兵衛を召上させ、修理させ将軍家斉に日本一家と称されて大いに面目を施したという。」
 
蝋燭作りのうち湯づけ(工人・富樫雄治)
 
 
何度もくり返し蝋をかける(同上)
 
 
小刀で芯先をだして形を整える(同上)
いずれも梅木寿雄撮影
 
 この御用看板の願書の中に「筆蝋燭」とあるのは筆形の蝋燭のことであろうか。また将軍家へ献上した「花筒」とはどのような物かはわからないが、絵蝋燭のすぐれた技法による細工であったことは確かであろう。
 また、寛政元年(一七八九)に鶴岡の中村茂右衛門が花紋燭の御用看板を藩より許されている。中村家は当時鶴岡の蝋燭屋行司役をつとめており、江戸時代からの蝋燭つくりを家業として、現在も継承している老舗である。
 絵蝋燭は、白い晒蝋に絵付けをする。晒蝋は木蝋を細かく砕いて、何日も日光にあてて漂白したものである。色彩に昔は、顔料にニカワを混ぜて用いていた。描く前に、蝋の油まくをおさえるために、大豆のゴジルを塗り、この上に色絵を筆で描き、終わると上がけといって再び蝋を薄くかけて色落ちを押さえ、艶を出す。鍋の蝋の温度が下ると、平均に蝋をかけることがなかなか難しく、熟練を要する作業である。
 絵柄には、御所車、草花、蓮華、龍、山水、人物など多彩である。昔は絵付けを専門とした職人が各店をまわって描いたこともあり、旧藩時代には、藩士が内職としてこれに従事したとも伝えられる。
 鶴岡市郷土資料館に明治二十年(一八八七)の鶴岡八日町出身の絵師大戸正貞の「花紋燭手本」一冊が保存されている。草花や蓬莱図など、当時の絵柄の縮図が描かれていて興味深い。
 港町酒田も、古くから絵蝋燭が行われたところである。酒田の丁字屋甚右衛門が宝暦十三年(一七六三)御用花紋燭の看板を許されており、酒田市史には、享保年間に鶴岡ではじめて作ったものが間もなく酒田にも伝来したらしく本町の蝋燭屋が花紋燭として売り出したとある。また同書には「寛政九年(一七九七)藩主酒井忠徳が将軍家斉の使いとして参内したとき、酒田から寸志金六千五拾両と米一万二百俵のほか蝋燭一万三千五百丁を献納しており、蝋燭が当時大量に生産されていたことがうかがわれる」と述べてある。
 また、天明七年(一七八七)に江戸の人松井寿鶴斉の著わした『東國旅行談』という紀行文の中に、酒田に来遊した折に見聞した絵蝋燭について次のように賞賛している。
 
花紋燭手本(鶴岡市郷土資料館)
 
 
鶴岡の絵蝋燭
 
 
絵はけ作業(工人・富樫雄治)
 
「花紋燭、同所酒田の町本町二丁目なにがしの家にて製する蝋燭の事なり。今三ヶ津にても製する絵ろうそく又は花ろうそくともいうものなり。当國当所のさらし蝋は日本第一の名産にして、至って色白く雪の如く、ろうそくとするに燈し油を用ひずして能く光て流るゝ事なく、たとえ流落ちても 物に付く事なし、彼の潔白なる蝋燭に、五色の絵の具をもって、花鳥 山水 草木 花実 和漢の人物 美女などを描き、その上を 又清白なる上品のさらし蝋をかけて みがきたれば さながら水晶の内に絵を書きたるが如し、火を燈すときは玲瓏として件の絵すき通り 美にして且つ艶なり
 故に公侯大人も是をもてあそぶ給ふとかや、依って諸国の旅人是を求めてみやげとす、そのあきのふ家は 門前に市をなして賑やかなり」。
 この文章には、この地方の識者と思われる人の誌した次のような付箋がつけられている。
「此辺より庄内の事追〃書きのせ候、乍去、他國より見物一通りにて書留候事故、まヽ違り候所相見之候 花もんろうそく等も、酒田は元に候えとも、この双紙以前より鶴岡皆川屋妙を得候事に御座候、其外とも右におなじ」。
鶴岡の絵蝋燭とほぼ同じ時期に、酒田でもすぐれた製品が盛んに作られ、天明頃すでに土地の特産品として他国よりの旅人たちにも珍重され、好評を得ていたことは注目される。西日本ことに京阪の文物が、数多く伝来していた庄内藩の海上交通の拠点酒田での絵蝋燭は、江戸時代後期急速に増加してきた西国よりのハゼ蝋の移入に、何らか影響を受けながら盛行していったのではないだろうか。
 大正時代になり、絵蝋燭の絵付けは、転写法という画期的な手法が取り入れられ、絵柄の転写によって、美しい絵蝋燭の量産が可能になり、儀礼の燈明用として、また当地の特産品として、広く需要に応じられるようになった。
 なお、手描き絵蝋燭を継承する鶴岡市山王町富樫雄治氏は、伝統的技法によって、現在もその製作に当たり、鶴岡の手工芸品として高く評価されている。
・・・<致道博物館>
 
参考文献
『鶴岡市史上』 鶴岡市 昭和37
『酒田市史改訂版上』 酒田市 昭和63
『出羽庄内の民具』 致道博物館 昭和48
『山形県の諸職』 山形県教育委員会 昭和62
『東国旅行談』(模写本) 鶴岡市郷土資科館蔵







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