明るく長持ちする
明・清代の燭台の流行は、蝋燭工芸の改良の向上と不可分のものであった。中国では宋以前は、ずっと蜂蝋と白蝋を使ってろうそくの主な原料としてきた。明・清代には、中国の南方では土地柄、はじめは植物油を使ってろうそくをつくっていた。「中国の一七世紀の工芸百科全書」と称される『天工開物』(明の宋応星の著)にもこれについての記述があり、「膏(あぶら)液」の条に「燭(ろうそく)を造るには則ち (きゅう)(ナンキンハゼ)の皮油を上と為し、蓖麻(ヒマ)の子(種子)はこれに次ぎ、 混油の斤(一斤)毎に白蝋を入れ凍結(固めること)するはこれに次ぎ、白蝋に諸の清油を凍結するは又、これに次ぎ、樟樹(クスノキ)の子の油は又、これに次ぎ〔原注:其の光は減らず(おとらず)、但し香気を避ける者あり〕、冬青(モチノキ)の子の油は又、これに次ぐ〔原注:韶(しょう)郡(広東省)では専ら用いる。其の油の少なきを嫌う、故に列次する〕。北の土(ち)は広く牛の油を用いるが、則ち下と為す」とある。 は烏 ともいう落葉喬木で、大戟(だいげき)(トウダイグサ)科に属す植物である。 の種子の皮膜を用いて搾った油を の皮油という。ろうそくをつくるには の皮油を上等の原料とした。『天工開物』「膏液」には の皮油を用いてろうそくをつくる方法が詳細に記されている。この後、ずっと清代末期まで、 のろうそくは中国で長いこと用いられ、さらには江浙(江蘇・浙江両省)一帯の重要な手工業・職業ともなり、清代の徐楊の『盛世滋生図』 (注(7))に描かれた蘇州の市街には五軒のろうそく店がみえ、なかには実物看板に「自家製造、京納めの 油の堅いろうそく」と書かれてあるものは、すなわち最上等の の皮油のろうそくをさす。 の皮油のほかに、各地ではその他の動植物の原料を用いてろうそくがつくられ、製造法はかなり多い。今日でも、中国の南北では多くの工房で祭や照明用のろうそくが依然つくられつづけている。ことに江南と福建・広東地方でさかんである。宗教や祭礼行事に用いるろうそくの表面にはさらに、多く吉祥文様が型押しされ、新婚の夜のろうそくには双喜の字が多く、また「竜鳳呈祥」や「二竜戯珠」などの図案もある。 (写真(9)(10)(11))
(11)紫檀に双喜を彫刻した盤竜文ろうそくの型
ろうそくは材料の吟味のほか、さらに染色加工にもたいへん気を使う。原来、一般の材料でつくられたろうそくは、もとの色は白色で、祝い事に点す喜燭や、結婚式に点す花燭、誕生日祝いに点す寿燭などのように、紅色のろうそくをつくるとすれば、紫草(ムラサキ)などのもので色を加える必要がある。 (写真(12))白いろうそくは「玉燭」「銀燭」ともいう。王維(唐の文人)の『早朝詩』に、「銀燭巳(すで)に行(れつ)を成し、金門(天子の門)の儼しき(いかめしき) 馭(すうぎょ)(御者)」とあり、韓愈(唐の文人)の『酒中留め(ひきとめ)襄陽の李相公に上る(たてまつる)』詩に、「銀燭いまだ窓に消えず曙を送り、金釵(きんさい)(黄金のかんざし)半ば墜ちて(おちて)座に春を誘う」とある。唐代にはすでに紅色のろうそくがあったが、白いろうそくは忌諱されていなかったので、婚礼の場でさえも白いろうそくが点された。
(12)家庭で行う祖先祭の供物を供える卓上の燭台(山東省)
(13)寺院内の超大型のろうそくを用いた祭祀(江蘇省 無錫)
(14)供物を供える卓上の燭台(福建省)
(15)亡霊の施餓鬼の祭卓上のろうそく(無錫)
(16)寺院内の祭祀の燭架(無錫)
ろうそくの心は煙を出して炭化したり、燃焼時に燃えはじけて、花弁状や垂れ穂状の灯花をつくる。灯花は「燭花」「蝋花」あるいは「火花」ともいう。この現象は、多くは燃料に含まれる雑物質が原因である。しかし昔の人はこれを吉兆の象徴とした。杜甫(唐の文人)の詩に、「灯花何ぞ太いに喜べる、酒緑(緑の酒)正に相い親し(ちかし)」とあり、庚信の『燭に対する賦』に、「灯花を刺り(かり)取り、挂燭を持し、還た(また)灯檠(とうけい)(灯架)に却し(かえし)燭盤に下す」とある。中国の民間には、「佳客到らば、燭花爆る(はぜる)」の諺がある。近現代でも、この俗信はまだ民間に伝えられている。しかし実用から出て、燭花はいまでも切り取られては高さを加え、十分に燃やされる。このため、人びとは燭花を切るための道具を発明し、「燭鋏」「燭筒」とよんだ。唐代の李商隠の詩に「何か(いつか)当に(まさに)共に西窓(女性の室)の燭を剪り(きり)」(『夜雨、北(妻のこと)に寄す』)とある。今日も、日本や韓国でも、この燭花を切る道具がみられ、その使用の範囲の広さがわかる。『紅楼夢』第二九回に、「十二、三歳の子供の道士が剪筒を持って、各所の燭花を切る世話をする」とある。
(17)緑釉燭台(現代 雲南省)
(18)模様入り藍ガラスの燭台 (清の乾隆年間 高さ28.5センチ 盤の径6センチ 北京・故宮博物院蔵)
ろうそくは油灯より多くのすぐれた特徴をもつ。たとえば、ろうそくは清潔であり、持ち運びに便利だが、油灯は汚れを避けがたく、携帯に不便である。こうして、ろうそくは金持ちや貴族が喜んで用いるものとなった。歴史上かつてろうそくの消費をもって節約を旨とする家事のきりもりの評価や、お上に清廉であることの尺度としたかどうか。欧陽修(北宋の政治家・文人)は、冠 公が子供のころは家が豊かで、油灯は使わず、寝室でも朝までろうそくを点し、厠でさえもろうそくの明かりを皓々と照らし、とけて落ちる液がうず高くなった。しかし杜祁公はつづましやかな人で、役人になってもお上のろうそくは点さず、油灯が一つだけで、螢火のように薄暗く、夕暮のようにいまにも消えそうであった、といっている。西方から石蝋(パラフィン蝋)が中国に伝わってからは、人びとはそのすぐれた性能を利用して、数多くの特殊なろうそくがつくられた。 (写真(13))これは清代の呉震方の『嶺南雑記』に、「西洋のろうそくは、大は重さが十余斤一対のものがある。黄蝋を煮つめて精製する。色は白蝋のようであり、柔軟で強く、長い時間燃える」とある。また、点さないときには巻きつけておくことができるろうそくがあり、「箸のように細く、綿を心とし、巻かれたところは輪にした 子(サンツ)(捏ねて発酵させた小麦を、ひも状にのばしてぐるぐる巻きにして油で揚げた食べ物)と同じである。点すには、そのろうそくを長く引き出し、消したらこれを巻いておく。巾箱(きんそう)(布張りの小箱)に入れることができ、明るくて長持ちする」とある。
ろうそくは照明のほかに、各種の宗教や祭礼などの行事に独特の働きを発揮する。(写真(14)(15))
仏事の供えに用いる長く燃えつづける燭灯は「長明灯」とよばれる。(写真(16))その意味は仏教の教義が迷暗を打破し、灯りのように照らしつづけていつまでも明るいことをさす。長明灯はときには比喩として「長命灯」ともよばれた。明の湯顕祖の『還魂記』(注(8))「殤(わかじに)を閙ぐ(さわぐ)」に「まさに従来、雨は打つ中秋の月、更に値す風の長命灯を揺するに」とある。『金瓶梅詞話』にも李瓶児が喪礼の期間、灯りを点して祭ったのは、「本命灯」とある。
道教の「天灯」を点す習わしは、漢代にすでにあり、後代にもこの習俗が多く踏襲され、天官を祭って加護を求めた。古く「天灯七盞(てんとうしちさん)」というのは、紅紙の灯籠を高い竿に合計七つかけ、北斗の形に似せたことから、「天灯」という。
放河灯(ほうかとう)は、江蘇省などの地方の民間習俗である。毎年農暦七月三十日の晩、地元の人びとはさまざまな色の色紙を糊付けして精巧な船形灯をつくり、ろうそくや灯心を取り付け、老人が小船を操って点して川に放つ。河灯は流れに従い、川面を漂う。色とりどりで美しく、壮観である。
ろうそくは照明の光源(写真(17)(18))であるのみならず、文化的内容に富んだ時節のものでもある。中国の民間では、祝祭日や婚礼・慶事のときに、人びとは灯籠をつるし飾り付けをして、慶賀を表す。(写真(19)(20))これは「光」と「色彩」の総合芸術で、独特の使用機能と審美的価値が備わる。それは多くの重要な季節の習俗や人生の儀礼を明るく輝かせ、しかもまた装飾や美的環境に作用し、人びとに愉快な雰囲気のうちに感情を交わさせ、未来を期待させる。
(19)紫檀に彫刻を施してガラスをはめ込んだ卓上灯(清代 北京)
(20)ろうそくが点る宮灯(瀋陽)
(宮灯は、慶事や祝祭日に軒先にかける房のついた八角ないし六角形の絹張り灯籠) |
・・・(中国・清華大学美術学院)
訳注
注(1) |
『神農本草経』は、北魏の呉普などの著。前漢の司馬遷『史記』「秦始皇本紀」に、「秦始皇を(り)山に葬る。(中略)水銀を以て百川・江河・大海を為り(つくり)、機(からくり)、灌ぎ(そそぎ)輸る(おくる)を相ける(たすける)。上に天文を具え(そなえ)、下に地理を具え、人魚の膏(あぶら)を以て燭を為り、久しく滅せざるを度る(はかる)」とある魚燭は、魚脂でつくったろうそくとされる。 |
注(2) |
『博物志』は晋の張華の撰。その第一〇巻「雑説下」に、「諸遠方の山郡、幽僻の處に蜜蝋を出す。人往往にして桶を以て蜂を聚め、年毎に一たび取る」とある。 |
注(3) |
『急就篇』は前漢の史游の著。文字を覚えるための教科書の類で、物の名や人の姓などを列記する。 |
注(4) |
この獅子がとる姿勢は、中唐以後に民間で流行した獅子舞の「涼州獅子」の形式――吐蕃の攻撃で西域の涼州を追われた獅子が、故郷のある西方へ頭を向け、哀れな声で長鳴きするポーズ――にのっとったものであろう。「涼州獅子」の演技のようすは、白居易の『西涼伎』に詳しい。 |
注(5) |
『開元天宝遺事』は、五代の王仁裕の撰。唐代の開元・天宝年間(七一三〜五六)の宮廷生活などを伝える。 |
注(6) |
『武林旧事』は、宋の周密の撰。南宋の都臨安(現、浙江省杭州市)の風俗・雑技・雑劇などの記事が多い。雑技では張子を使う演技に灯彩が採用されて、灯彩戯・灯彩幻術などが新たに登場した。 |
注(7) |
『盛世滋生図』は、別名『姑蘇繁華図』ともいう。徐楊は乾隆年間(一七三六〜九五)の清の宮廷風俗画家で、蘇州呉県の出身。画中には「香燭」と書かれた看板や「小心火燭(火の元に用心)」などの壁に書かれた告示などもみえる。 |
注(8) |
明代の戯曲で、『牡丹亭還魂記』の略。 |
◎協力――呂敬人
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