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◎住まいの履歴◎
 このように血縁関係のあるもので住んでいても代を重ねていけば、住居は変化する。大井脚×号の四合院は、もともとの住居の一部が売却された例だ。現在では、前庭、客庁、大庁、後庁からなる。図(9)この大庁に住むA氏は、ここに住みはじめて五代目である。初代は州の龍渓出身で、フィリピンなどとの海外貿易で財を成したという。なるほど、この一族の家系をみると、海外へ渡ったものがずらりと並ぶ。彼の家系もまた、ほとんどの長兄が厦門を離れている。
 
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図(9)大井脚×号の四合院・・・厦門の四合院には珍しく敷地内に木が植えられている。護をもたないため、街路から直接大庁、後庁に入ることができる。なお、網掛け部分が売却された場所である。
 
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図(10)八卦×号の四合院・・・前庭がない四合院である。そのため、街路に面して客庁がある。網掛け部分がW氏の祖父が購入した建物である。現在では分割が進み、留守などで入れない部分も多かった。
 
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図(11)石街×号の街屋・・・一つの棟からなるが、奥行が比較的深いため、広間の後ろに寝室が二つ並べられている。なお、二階にはかつて埠頭作業員をしていた人の子孫が住んでいる。
 
 初代は、太平天国を鎮圧したことで知られる役人・左宗棠を頼り、清代咸豊年間(一八五一〜六一年)にこの住居を購入した。当時は、西側にさらに建物があった。各中庭から西側へ通じる門があるのがその名残だ。この西側の建物は一九一〇年前後に質に入れられ、買い戻すことなく売られてしまったそうである。不動産としての家屋の売却の権利を誰がもっていたのかはわからないが、これにより住居は縮小した。現在では、西側の建物は建て替えられている。
 一方、八卦×号は建物の一部を購入した例である。もともと、客庁、大庁、後庁、護で構成されていた。図(10)現在、この大庁に住むW氏はここに住む三代目にあたる。祖父が一九四〇年前後に客庁と大庁を購入した。祖父は医師をしており、客庁を診療室として利用し、大庁に家族が住んだ。大庁の中央の広間は祖堂として使い、祖先を祀っていた。今でも、祭壇である中案卓が残る。
 このように、もともとの住居が分割されていく一方、土地を拡張した四合院もある。図(7)で紹介した局口街の住居がそうである。東側の前庭と客庁、大庁で構成される住居が拡張された部分である。初代の妻が土地を少しずつ購入していき、伝統的な構法で建てた。拡張された部分と既存の建物には、材科などに明らかに時代が異なっているのが認められる。
 このように、四合院は分割や拡張を繰り返してきたのである。なかには、賃貸されていたものもあったであろう。
 特に、街屋には賃貸されていたものが多い。石街×号はその例である。四階建てで一つの棟の街屋だ。図(11)日に焼けた黒い顔が一見、無愛想にみえるC氏は一階に住む。C氏の祖父は同安県の出身で、厦門に妾をつくったという。妾がここで産んだ子がC氏の父である。父がもし生きていれば、一九九七年当時で九十九歳であった。当時から各階で分割し、賃貸されていたそうだ。二階以上の住人は、一階の街路に面した部分にとられた階段で上階にあがる。階段室が設けられているわけではなく、広間が踊り場を兼ねている。つまり、広間はその階に住む住人の祖堂であると同時に、上階の住人の通過する空間となっている。







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