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◎住まい方◎
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図(7)局口街×号の四合院・・・図の網掛け部分は第一代の妻が土地を購入して四合院を建てた。後庁の東側に張り出した所はもともと厨房だった。
 
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図(8)小打鉄街×号の街屋・・・広間の階段のつき方は、奥から手前に向かって上る。こうすることにより、階段を上ると広間に祀られた祖先や神仙と対峙するようになっている。また、西側に付随した部分の一階は厨房である。
 
 一般的に中国では大家族で住むことが理想とされてきた。しかし、一九四九年の新中国設立以前の農村では、核家族であることが社会学からの研究成果で示された。著名なものに、広東省の潮州に近い村を調査したD・H・カルプや江南の村を調査した費孝通などの成果がある。それらでは、一世帯あたりの平均家族数は四〜六人であり、二組以上の夫婦からなる家族がきわめて少ないことが指摘された。
 では、厦門ではどうだろうか。これらの成果を一概に適用することはできない。なぜなら、厦門は農村ではない。したがって、生業も異なる。そして、住居の規模が異なるのである。農村では、複数の中庭で構成される住居はきわめて少なく、大部分を占めていたのは一つの中庭を三つの棟で囲んだ三合院なのである。
 厦門の住居の家族数について具体的な数字はわからない。しかし、それを知る手がかりとして、『厦門志』には、驚きの様子でこう書かれる。「子供が多く、妾の子も一緒である。数代を経た後には、誰の子孫かわからなくなってしまうのではないか」と。
 では、ここに事例を示そう。
 局口街×号の住居は、前庭、客庁、大庁、後庁からなる。図(7)聞き取りに応じてくれたのは、客庁に住むL氏の妻で、ここで生まれ育った。一九九六年当時、八〇歳を過ぎていた笑顔のかわいいおばあちゃんは厦門語しかしゃべれない。しかし、たまたま訪れていた息子が通訳してくれた。そして、幼少のころの住まい方を教えてくれた。
 ここには、彼女の祖父の代から住んでおり、すでに一五〇年が経過している。その祖父は、貿易関係の仕事をしていた。そして、祖父には五人の子供がおり、次兄が彼女の父にあたる。その父は、会社職員をしていた。
 彼女が幼少のころは、祖父と長兄が後庁に、三兄と五兄が大庁に、そして次兄と四兄が客庁に住んでいた。血縁関係のある三代の家族が一つの住居に住んでいたのである。
 のちに、長兄と三兄は南洋に渡った。厦門では、実にこのケースが多い。つまり、長兄は家を出てしまい、それ以外の兄弟が厦門に残るのである。特に、末っ子が残る場合が多い。家族全員が厦門を離れる場合、血縁関係のある親戚に住まわせるのである。土地と家屋を手放さず、血縁関係のある人たちが厦門の拠点を守っている。こうすることによって、厦門を離れた家族たちの「衣錦還郷(故郷に錦を飾る)」が可能となるのである。
 一方、狭小な街屋でも家族数は多い。小打鉄街×号の住居は代々、包丁店を営んでいた。間口は二間で三階建てである。図(8)当時は東側の一階が営業空間で、その他の部屋は家族の居住空間であった。また、かつては街路を挟んだ南側にも住居を所有しており、一族で暮らしていたという。
 一九三三年生まれのZ氏は、この街屋の四代目にあたる。Z氏が幼いころ、曽祖父は存命していた。曽祖父は厦門に来て、ここで包丁店を開業したが、当時経営は祖父の代に受け継がれていた。引退した曽祖父は東側の営業空間の二階、後方の部屋に妻と住んだ。そして、店主である祖父はその前の部屋に住んだ。この部屋は床に穴がうがたれており、一階の店が覗けるようになっていた。そして、それ以外の家族は広間の後ろの部屋や東側の寝室で寝起きしていた。その数や、相当多かったそうだ。四代が同居していたことになる。
 多くの家族で暮らしていながらも、各階に設けられた広間は寝室になることはなかった。一階を一族の食堂、二階には祖先が祀られ、三階には観音菩薩などの神仙を祀っていたそうだ。
 このように、厦門では血縁関係にあるものが身を寄せあいながら住んでいたのである。







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