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◎ダフール族の樺樹皮器物の装飾芸術◎
 樺樹皮器物に絵を描くことは、ダフール族の日用器物の発展史においても重要な位置を占める。次のようなおもしろい伝説がある。昔、二人のダフール人がよその土地で出会った。そのうちの一人のダフール人が、もう一人のダフール人に尋ねた。「あなたはどの部落のお方ですか」と。もう一人が考える間もなく答えた。「わたしは樺樹皮の籠部落の者です」と。実際にはダフールの人びとにはけっして樺樹皮器物の名をもって部落名とする習俗はないが、この伝説にはダフール族の歴史における樺樹皮器物の重要性が客観的に反映されている。
 ダフール族の樺樹皮器物には三通りの装飾法がある。一つは点を刺す装飾法、二つは彫ってはめ込む装飾法、三つは墨絵の輪郭を描く装飾法である。彫ってはめ込む装飾法と墨絵の輪郭を描く装飾法は、ダフール人の発明と創造である。彫り方はまず樺樹皮の上に図案の輪郭を線描し、ついで刃物で図案にかかわりのない部分を彫ってほじくり出し、剪紙(せんし)〈切り絵〉の効果をつくり上げる。その後に彫った図案のうしろに紅、藍、深緑の布を当てて裏打ちし、強烈な色彩の対比によって図案に新しい芸術的効果をもたらした。墨絵の輪郭を描く装飾法はダフール族のなかでは比較的新しく生まれた。おそらくは満族が筆と墨をダフール族の居住地区に伝えた後のことである。墨絵の仕方は、樺樹皮器物の成形後に、器物の蓋と器体に直接墨筆で各種の図案の輪郭を描く、白描〈毛筆で墨の線だけで描く中国の絵画の技法〉の技法に似る。図案が乾いたら、その上に桐油を薄く塗って図案をはっきりとさせ、光沢をもたせる。
 ダフール族の樺樹皮器物の装飾文様には、動物、植物、幾何形、満漢吉祥文、亭台楼閣の建物や人物故事などの文様がある。そのうち動物文様には、鹿、虎、馬、胡蝶、魚、鳥などがあり、植物文様には、牡丹、霊芝、梅蘭竹菊、宝相花、杏、蓮の花などである。幾何形文様には、半円、水波、円、菱形方格、三角形などの文様がある。参考的な装飾文様には、回文、卍字文、八結盤腸文などがある。満漢吉祥文様には、五福奉寿、福禄寿などがある。亭台楼閣や人物故事の多くは、伝統の民間故事が中心で、背景に亭台楼閣や小さい橋や川、山野樹木などを配る。これらの文様からみてとれるのは、ダフール族の樺樹皮芸術はエベンキやオロチョンと異なり、満・漢文化の要素を吸収かつ融合して、ダフール族の樺樹皮器物の装飾芸術に独自の民族的風格をつくり上げ、北方狩猟民族の樺樹皮文化を豊かにしていることである。
 
[訳註]
註(1)東胡は匈奴すなわち胡の東に居住するのでこの名がある。のち匈奴に圧迫され、大興安嶺南端の鳥桓(うかん)山に退いた一派が烏桓族で、遊牧や狩猟を主に営んだ。鮮卑山に退いた一派が鮮卑族で、大興安嶺の南西、西拉木倫(シラムレン)河と嫩(ノン)江の支流児(タオアル)河の間で遊牧を主に営んだ。鮮卑山は大興安嶺の南西、内蒙古の科爾沁(ホールチン)右翼中旗の西にある蒙格(モンコー)とよぶ山のこととする説がある。なお、註(6)に言及した中国東北の晩期青銅器文化である夏家店上層文化の担い手を東胡とする説がある。
註(2)(かいこつ)とも記し、ウイグルの古称。唐の玄宗の代に蒙古高原のオルホン川(下流はバイカル湖に注ぐ)流域を中心に汗国を建てたが、唐末に汗国は滅び、西へ移動して大部分は新疆に移住し、ここで先住民族と共住して次第にウイグル族として発展した。
註(3)室韋は単一の民族ではなく、五、六世紀に「勿吉(ぶっきつ)」すなわち現在の吉林省地方以北に居住するすべての狩猟民族を指した。『隋書』「室韋伝」によれば、室韋は南室韋、北室韋、鉢室韋、深未恒室韋、大室韋の五つの部族集団に分かれていた。このうちエベンキ族と歴史的に比較的直接の関係にあるとされるのは北室韋と鉢室韋である。南北朝時代の北朝の正史『北史』「室韋伝」によると、北室韋は大奥安嶺の北麓に居住し、「射猟を務(しごと)と為し、肉を食し皮を衣る(きる)」とあり、北室韋から「又北へ千里を行きて鉢室韋に至る。胡不山に依りて居み(すみ)、人衆は北室韋より多く、幾部落を為すか知らず。樺の皮を用いて屋を蓋う(おおう)。其の余は北室韋と同じ」とある。「胡不山」は現在のロシアのアムール川(中国名は黒竜江)中下流左岸、プレヤ山にあたる(以上、任国英『満−通古斯(ツングース)語族諸民族物質文化研究』、二〇〇一年刊 遼寧民族出版社)
註(4)高くて大きい車輪を使っていたのでこの名がある。漢代には丁零と称され、北匈奴を圧迫して西走させた。五〜六世紀に北アジアにいた遊牧民族で、のちに丁零と音が通じる鉄勒と称された。鉄勒はチュルク系民族の総称で、隋代にその一部族を「韋」と称したのがすなわち回、回鶻である。
註(5)この方法は近年まで行われていたことが確認されている(宋兆麟「古老的制陶術」『民族文物通論』、紫禁城出版社、二〇〇〇年刊)。
註(6)この遺跡の名をとって白金宝文化とよぶ。中原地区の西周中期に相当する中国北方の青銅器文化で、嫩(ノン)江の中下流域と松花江の上中流域を中心とする松嫩(ソンノン)平原に分布する。陶器にある雷文や蝉文に似た文様や、出土した鬲(レキ)(三本脚の食物を煮る器物)は、内蒙古の昭烏達(ジュウド)盟や遼寧省朝陽市、河北省承徳市を中心に分布する晩期青銅器文化の夏家店上層文化と類似し、白金宝文化の発展過程で、この地域の文化の影響を受けたことを示す。
註(7)墓はいずれも長方形の竪穴の土壙墓で、樺の木棺を葬具とするが、多くは蓋があって底がない。牛、馬、羊の骨の殉葬と鏃、矛、弓袋などの武器が副葬され、遊牧経済の特徴を反映する。また中原文化に典型の規矩鏡や「如意」銘の錦、木胎の漆塗鏡箱もあり、中原文化との密接な関係を反映している。いっぽう、匈奴の影響を示す双耳銅は釜の一種)や各種の動物を形どったメダルも出土している。
註(8)清代の初めに黒竜江地方を実地踏査した方式済の地誌『龍沙紀略』に、「老婦は麻縄を用いて樺の皮の籠を縫いつくり、また樺の皮を用いて弓を纏つけ(まきつけ)、車の篷(とま)を為り(つくり)、穹蘆(きゅうろ)(テント張りの家)を為り、紮哈(さつは)(樺樹皮船)を為り、これを縫って円筒と作し以て水を担ぎ或は酪漿(らくじょう)(乳を醗酵させた飲料)、米麺(米や小麦などの粉)を盛るに用う」「鄂倫春(オロチョン)の地に樺を産し、冠履(被り物と履き物)、器具、廬帳(テント張りの家)、舟渡は皆、樺の皮を以てこれを為る」とある。
 
◎『漢聲』51号よリ転載しました。
 
エベンキ族の円形文
 
オロチョン族の菱形文
 
ダフール族の文







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