日本財団 図書館


映画『チベットの女』を読む・・・貞兼綾子
 現代のチベット人を語る上で忘れてならないのは、この民族が、一九五〇年から現在まで少なくとも三度の試練の時を経験しているのだということ。受難の時代であったとも言い換えることができる。一つはチベットが中国の一部であることを認める『十七条の協約」に同意したこと、チベットの政治宗教の象徴でもあったダライラマ十四世の国外亡命、いま一つは文化大革命の時代。そしてこれらの延長上線に一九八七年〜八九年のラサの戒厳令事件が続く。最後の経験は、チベット人の基本的人権に関わるいわゆるチベット民族問題を露呈した事件として私達の記憶に新しい。受難の時代だと言った理由は、これらの時を通じて、この民族がもっていた固有の言語や文化、そして精神的な支えであった宗教への容赦ない変更を強いられてきたからだが、それは現在も形のあるもの、形にならないものの上に癒されることのない傷となって深く刻まれている。
 
 映画『チベットの女−イシの生涯』は丁度この時代と重なっている。作品はダシダワの短編小説「冥」を映画化したもので、イシを巡る三人の男性、荘園領主、仏教僧、カンパ族の夫とのそれぞれの愛の形を好情的に描く。孫娘に語る回想シーンは愛の絆を高らかに謳い感動的でさえある。しかし、これは小説の世界であるがゆえに可能であった人物設定であることは否めない。
 例えば、(1)徹底的に破壊された寺院、存在を否定された僧侶たちは当時豚小屋や糞尿の清掃に従事していたはずである。僧衣を纏い隠遁することが可能であったのかどうか?(2)ラサを防衛するために立ち上がったのはカンパ族の義勇軍であり、ダライラマの国外亡命をエスコートしたのもこのカンパ族たちであった。劇中のカンパ族の夫は政治のうねりをいかに掻い潜り得たのか?(3)亡命できた一握りの人々が帰国後の中国治下で公職につくことが可能であるのか?(4)そしてまぎれもない中国のプレゼンス。映画ではなぜかこれらの時代背景が完全に欠落している。これらの検証なしにチベットを描くことが可能であるのか、大いなる疑問が残る。
 イシを巡る三人の男性も、この時代考証の中で描かれることによって、イシが背負った宿命が現実味を帯びたはずである。清澄なチベット高原の自然を織り込んだ美しい映像であるだけに、惜しまれる。
 
 映画の時代考証はさておき、『チベットの女』の通奏にダライラマ六世ツァヤン・ギャツオの甘美な情歌が流れる。前世のダライラマの死を長く秘匿されていたために、六世は十四歳という法王としての帝王学を学ぶには遅すぎる年令で登位し、政治スキャンダルの渦中、二十三歳という若さで没した。戒律よりは自由を、六世は恋愛詩人でもあった。夜な夜なポタラ宮殿を抜け出し、馴染みの女性と愛を交わし、あふれる情感を詩に託した。イシが晩年夫と共に住んだポタラ宮殿を見上げるショルの町が舞台だ。宮廷の政治と宗教を支えたこの一画は、今は跡形もない。
 死の直前、六世ダライラマがラサの女友達へ遺した詩がある。
その鳥 白き鶴よ
わたしに翼をかしておくれ
それほど遠くへじゃない
リタンを経巡って帰ってくるよ
 リタンは七世ダライラマの生地である。
〈チベット研究家〉
◎公開上映予定◎
1月5日(日)東京都写真美術館ホール(東京)Tel.03−3462−0345
2月第七藝術劇場(大阪)Tel.06−6302−2073
 
[連載]仮説の間道(7)見世物小屋への旅・・・坂入尚文
 奇妙なことに暗闇祭りには見世物小屋の記憶がまったくない。ここは現在、松坂屋の私の親分が分方となっていて、今年も私は小屋ばらしを手伝っている。
 伝統のある興行の世界だ。この年だけ小屋が無かったと考えるのはとても不自然なことだ。
 特に暗闇祭りは大高で、間もなく迎える昭和三十年代は五十を超える見世物小屋が日本全土にひしめいていた。
 見世物が所場を空けることは、経済的理由からもテキヤとの勢力争いからしても有り得ないことなのだ。
 その代り私はテキヤのガセネタを買っている。ブリキを曲げただけの指輪でコインや火の着いた煙草を空中から、客の衣服から、時には口の中から取り出し、また宙に消してしまう小道具だった。
 もちろん本当の芸は指先のトリックでこんなものは使わない。本当の種あかしは紙袋に同封したガリ版刷りの下手糞な絵に描いてあって、熟練を要する以前に判読が不可能という徹底したものだったが、見とれて時が過ぎた可能性は大いにある。
 法外な金額であったろう。胸のときめくくらいの親の金を盗んで、五月の日の長い時にすっかり暗くなって家へ帰った。
 このことに口を割らない私は手ひどい折檻を受けることになるが、いずれにしても見世物小屋は私の内深に埋め込まれていたのだ。
 それがある日一本の電話から、トラウマという化け物が再び現実の世界に現れてきた。
 男三人の旅だ。太夫元はボディビルで体を鍛え、じっと鏡を見るような男だ。
 もう一人みつるちゃんが居た。東北の農家の次男坊で、ホストをあきらめた二十歳(はたち)そこそこ、普通、旅には金が掛かるが、少なくとも板の間稼ぎよりは安全、そういったのりで、何であろうが一旗上げる気概があった。
 みつるちゃんは後になって太夫元から手術を受ける。
 歯ブラシの柄を磨いて亀頭の皮下に埋め込む手術のことは、いかがわしい週刊誌から仕入れたものだ。
 私が二十四、五歳、太夫元が三十という危ない旅で、太夫元は知り合いの(獣)医師から抗生物質まで手に入れている。旅は放埒に、それにもまして心の奥底に向けて逆行していくことになる。
 出発前には豚を血祭りにあげた。血祭りといっても実際には屠場で処理された丸ごとの豚で、本当は殺して見せたかったという太夫元の前に法律が立塞がる。鶏や犬猫までは小動物で、豚は大動物となり屠殺は屠場でしか許されない。
 豚の丸焼きは見世物らしい見世物として企まれたのだが、これでは週刊誌も取り上げようは無かったようだ。
 この旅がけして旅行などではなく、凶暴で反社会的、暴力をいとわないヤクザと呼ばれる人たちの中へ入って行くのだということは、三人とも、映画や三流週刊誌からたっぷりと仕込んではあった。豚を喰うパーティに集った友人たちも、ひとしおその話題で盛り上がりはしたが、さて見世物となると話題はそぞろになる。見世物興行の世界に本物の蝋人形を持ち込むのだと熱弁する太夫元は、清水次郎長と争った大頭龍一家、吉本力氏の若い者となり、自身が見世物となっているのだが、私たちは時代からも逃げおおせようとしていた。
 東北の長い街道では、古い過積載のトラックが少しの窪みでも車体をよじった。運転席と荷台がねじれる様は、ぐらんみしりと音を立てるようで、そのうちタイヤが破裂してしまう。山道に入ると唸りを上げるエンジンからオイルが吹き出し立ち往生となる。
 目的地旭川に着いたのは四日目の朝となっていた。
 この道中の記憶は今でも鮮明で、新宿に高層ビルが目立ち始めた東京から古い家並みの東北を走り、早朝とも白夜ともつかない時間、フェリーから函館に上陸したのはほとんどが大型のトラックだ。
 生活に必要なあらゆる物資を満載したトラックは長い隊列を作り、国道から道道、街々集落へとそれらを運んでいく。
 その隊列に紛れ込んで、私たちだけが異なるもの、逆に生活を混乱へ落としめるたくらみを満載して、人知れず侵入していく。
 そう思うと密かな胸の高鳴りがあった。
 山間部から海沿いの見慣れない原野に出ていくつもの廃屋を見ながら走ると時折濃いガスに突入するが、そうなると私たちはトラックの隊列からも置き去りにされたような孤独感に襲われて無口になった。
 見知らぬ所へ侵入していく。ここまで来ると、どうやらそれはヤクザ世界へということではなく、これから訪れるであろうそれぞれの町、律儀な開拓農民や漁師、生を営むあらゆる人たちを欺くために侵入していくことに気づかないわけにはいかなかった。
 たいしたことではない。たかが見世物という気分もある。
 ちょっとしたトリックで人々を騙し愉快な日々を過ごすだけのことだ。
 現在ならそういって舌をも出そう。けれどもこの時の高鳴りは今でも時折、うずくように胸の中にある。
 それは子供の頃の、親の金を盗んだ時のものに似ていて、やや悲しみにも似た甘いものだった。今五十も過ぎてここまでも落ちぶれた。
 当時の私のような子供、なけなしのその金を巻き上げる時に、私は私を演じている。ふとそう思うのだ。
 旭川は二十万人を擁する北海道屈指の街だ。目的地はこれほど遠く、そしてここでついに見世物の人たちと会うことになる。ところが、道中の鮮明な記憶に比べどうにも心もとない。
 もちろん当時はテキヤ王国の実態を知らない。たちまちのうちにその中へ呑み込まれていったのだろう。
 北海道の夏高は旭川から始まる。そこへ全国からどっと押し寄せるテキヤの総数は、当時およそ六百以上。次場所の札幌ではこれが千数百に膨れ上がる。
 道警は非常事態に入る。その中にあって、興行は蝋人形と小物を合わせて二本。オートバイ、薮各一本。
 アーチェリーなどの遊技を合わせてもその構成員はおよそ、そしてわずか二十人。
 テキヤから土場を守る分方の力がいかに強く、そして神経が張り詰めていたかは今になってわかる。その只中へ飛び込んだのだ。
 言葉の問題もあった。北海道弁と業界用語が混じる。たとえば、あずましくないからちょうされないように小屋を広げろ。
 ここはゴイがマブイからツッカケルぞ。こうなると全く対応できない。資本を投下した大学出の鳴り物入りの登場で、しかもネス(素人。一本立ちしていない、スネかじりのことか)であることがわかると風当たりは相当強くてあたりまえであろう。
 丸太小屋の要所には酒と塩が供される。地霊との交感が、死や生き血を日常とする人たちにとって重要であることを知らなかった。
 後になって太夫元は、土足で見世物世界へ入ったのだと述懐している。
 ともあれ、商売のほうは大失敗に終わった。頭の中の見世物では表木戸の呼び込みが全くできない。旭川と札幌で三千万円を稼ぎ、その分金千八百万円で投資の元を取る。その後数年で中古の船を買い水上見世物館とする太夫元の目論見は商売の初日に終え去ったのだった。
 旭川の売り上げは二百数十万円であったかと思う。札幌は五百六十万円、三日間およそ一万五千人の入場者となり、小物の売り上げはしのぐことになるが、この数字は現オートバイサーカス団長、山川義光氏が二十年を経て覚えていたもので、逆に見れば新参の蝋人形の登場が業界にとってセンセーショナルであったことがわかる。
 秘密の蝋人形館は、入り口がピンク・レディだった。曲がるといきなり防空頭巾、焼け爛れた原爆被害者の母子像となる。
 続いて生体解剖のトルソー、梅毒の進行、布絵の包茎手術と帝王切開の説明があり、大久保清の強姦場面がある。
 原爆と生体解剖は太夫元の顔になっており、いかに自身の見世物化が企てられたかがわかるが、圧巻は人肉市場だった。
 開けば二畳ほどの安手の型押し白タイルの一角には、胴体や太ももから切断した足が鉄鉤で吊るされ、血しぶきが壁面に飛び散り床には血溜まりがある。
 切り取られた耳や鼻、手指や毛髪などは屑箱へ投げ入れられ内臓や肉片がずるりと外へ垂れている。血糊で握り手まで固まった鋸は床に放り投げてあった。
 血しぶきが壁面にまで飛んでいるところを見ると、殺人の後に解体の仕事が行われている。
 殺人者、肉職人は同一のものであるはずで、仕事を終えて不在である。男であるか女であるか解らない。
 実は犯人は女である。仕事の血を流し、暗緑色のレオタード、ロングブーツ、長手袋に着替えた白人の大柄な女は両手両足で大の字を作り、小屋正面のセンターポールの上で、モーターによる勝利のトンボをゆっくりと切っている。この国が白人によって陵辱されたことは、小屋入口の原爆被害者によってすでに明らかにされていた。
 その真下のグラシ(表から見えるはったり)は白雪姫と七人の小人になっていて、白雪姫はマリリン・モンロー、七人の小人はそれぞれ、小沢昭一、永六輔、野坂昭如、田中小実昌、大橋巨泉、青島幸男となっていた。強姦場面はこの年の高市中に捨ててしまい、翌年あらたに昭和天皇の御尊顔が登場する。
 横断幕には有名人芸能人四十数名全員集合となっていたが、出口近くにはようやく芸能人の首が十数個ほど並んでいた。
 人肉市場の手指、耳鼻もその一部としても四十数人があったかどうかは問わずもがなの見世物だ。
 もとより商売の成功が目的ではなかった。場内を一巡すれば誰しもわかる。
 それでも大高である弘前や博多のあとすっかり落ちぶれる前の三年間の入場者は、概算で軽く二十万人を突破したことになろう。
 秘密の蝋人形館は土挨で汚れ、三年も経つと二度と入らない客を日本全土に増やしていく。私は三年目を終えて小屋を去った。
 その後九州あたりで本当の立往生となり、トラックごと全部土地の藪にたたき売ったと聞いたのは、出発して五年目のことだった。
 高層ビルがいよいよ林立する時代のことだ。
 初旅の見世物のことはあまり覚えていない。翌年であろうか、三年目であろうか、うろ覚えながら石油ショックがあった。
 燃料を分けないスタンドに半日居座り、スピーカーをがなりたて満タン分をゆすり取るようになるのにそれ程の時間はかからなかった。
 私はヤクザになったのだ。
 札幌では寝小屋の部落ができる。小屋の数だけ天幕小屋と分方事務所のプレハブ小屋は泥幕やトタン板などで囲われ、テキヤもネスも決して中へ入れない。
 入れないわけではない。別段見張りがいるわけでもないのに入ってこないのだ。寝小屋部落にして、すでに威光を放つこの業界の秘密とは何であったろうか。
 土地によっては分方さんが空き家を借りてくれる。時にはその金も天引きされるので油断できないが、長い時は半月もそこで過ごす。
 ある家はYまちだった。残雪のY岳のなだらかに続く裾野がいきなり海へ落ちる景色を見ていると、小学生の兄弟が電柱に隠れてこちらを窺っている。
 昔の私をふと思い出して声をかけるが答えもしなければ帰るわけでもない。
 そのうち姉のほうがおずおずやって来て、二階のランドセルを取りに入っていいかと聞いた。ここは空き家ではなかったのだ。
 その家は世話人の関係者のもので、高市が始まると兄弟は美しい母親と共に招待券を持って小屋を訪れた。
 S町では町外れ、橋を渡った海沿いの小さな集落に掘っ立の家をあてがわれた。小屋といってよいほどの家で、吹き寄せた砂が家の中にまで積もっている。
 驚いたのは便所まで抜け落ちたその荒れ方ではなかった。部屋には布団が、掛け布団を半分折りのまま残されていて、枕元には薬袋とガラスの吸い飲みが盆に載せてある。
 あわただしく一応の儀はつくしたのだろう。小さな線香立てまで残されていた。
 跡を片す者もいない。身寄りのない独り者が死んだのは十年も前であることが破れ襖のカレンダーでわかった。
 H市ではアパート一軒が見世物師にあてがわれた。その中に仮設ストリップの一座がいた。
 太夫元と女二人。一人は乳飲み子を抱えている。夜半に激しい口論と頬を打つ音がして、廊下を走る女がいきなり私たちの部屋へ飛び込んできた。
 浴衣の裾がはだけた女の太ももには刺青が見えた。
 女は酒をねだり、三人が固くなっていると勝手に一升瓶を引き寄せコップを一気にあおる。
 そのうち一息吐くと、目の前で下着を下ろし、「見なよ」と広げた。下腹部から太ももに赤いバラが咲き誇っていた。うっかり乗れば地獄行きだ。
 居抜いている。生活を居抜き死を居抜き性を居抜く。黄泉の国の入口あたりに仮の生を営む。
 アカシヤの花がぽとぽと落ちる寝小屋部落には、しゃがみこんで鶏に末期の水をやっている老婆が居た。ごめんね、ごめんね、とか細い声で言っている。
 いざ商売が始まり、たまたまこの年最後の歯が抜け落ちた、痕少女を名乗る太夫の指には剃刀が仕込まれている。
 見世物とは死と対面するはなれ技である。おわり
〈飴細工師〉







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION